日記でスイス旅行-モルガルテン他

ヨーロッパで一番高いぶどう畑
フィスパーターミネンのワイナリー、ザンクト・ヨーデルン。スイスアルプスに匹敵する高さだ

ぶどう畑をよぎる道路
農道というより山道

ヨーロッパで一番高いところにあるぶどう
主にハイダという白ブドウが植えられている

ヴィミスの城
ベルン州の裁判所になっている

ヴィミスの村
この村に裁判所が必要なのだろうか???

我が家のお花畑
こう花が多いと、手入れも大変

我が家のお花畑2
しかし、花が咲いて、みんなが喜んで見てくれるのはうれしいものだ。・・・というのはウソ。これは我が家の近くのお花畑で、無人花販売所となっている所

ひまわり満開
ひまわりの花はみんな同じ方向を向く。まるで行進しているみたいだ。

花は天を目指す
太陽に向って、のびのびと生長している。その無邪気なまでの真っ直ぐさが心地よい

アンナ・ゲルディ小道
グラールス州モーリスにある、最後の魔女と言われるアンナ・ゲルディの名前を記念した小道

アンナ・ゲルディ博物館
郷土博物館を改装してアンナ・ゲルディ博物館となった。この日は開館式だった。
http://www.annagoeldin.ch/

彼女は魔女裁判にかけられ、拷問を受け自白、斬首された。裁判記録が残っている魔女として処刑されたのは彼女が最後だった。
グラールス州の司法当局は、裁判は適法であったと主張しているらしいが、魔女で有罪というのが、現代にあっては途方もない冤罪に他ならない。

アンナ・ゲルディに関する書物やDVD
映画化されている。彼女が下女として奉公した、モーリスにある裕福な家の娘と彼女は折り合いがよくなかったらしい。結局彼女は解雇される。その後、その娘があるとき嘔吐し、中から針などが出てきた。
これはゲルディが魔女で、呪いをかけてその娘の腹に針を入れたのだと、娘の父が訴えた。グラールス当局は彼女を指名手配、当時チューリッヒに住んでいた彼女は逮捕され、魔女裁判にかけられた。
魔女裁判の手続きは、合法的な拷問からなっていて、大抵の人はその苦痛に耐えかねて、自分は魔女だと自白する。死んだほうがましだと思ってしまうのだ。不屈の精神の持ち主で、この拷問に耐え切る人も稀にはいたようだが、それでも必ず障害が残ったという

ひっそりとした村、モーリス
1782年にゲルディは処刑された。200年ちょっと前のことだ。近代に至るまで、人々は魔女の存在を疑わなかった

モーリスのぶどう畑
グラールスにもブドウ畑がある。グラールス州全てのぶどう畑を合わせても2ヘクタールに及ばない規模。グラールスワインはスイスでも幻のワイン

ニーダーウルネンのぶどう畑
モーリスに続くグラールスのぶどう畑。ワインもそうだろうが、ぶどう畑を見つけるにも一苦労する。グラールスとウンターヴァルデン、ウーリはスイスの3弱ワイン産地だ

ニーダーウルネンから見える山
標高は2000m弱

モルガルテンの戦い記念碑
シュヴィーツ州エーゲリ湖畔にある。このモルガルテンの戦いで、農民武装集団であったスイス軍が、ハプスブルグ家の国王軍を打ち破り、スイス独立の礎を築いた。

こんな山の中の出来事
シュヴィーツ、ウーリ、ウンターヴァルデンのスイス原三州はこのアルプスを越えるゴッタルド峠の通行料や交易で潤った。そこにハプスブルグ家が目をつけてこの地域に保護権を主張したため、対立が先鋭化していった。
スイス原三州は神聖ローマ帝国の自由都市(実際は農園?)として自由独立を進めて行ったのに対し、ハプスブルグ家は神聖ローマ帝国の諸侯の一つとして勢力を拡大し、時には皇帝の地位にまで就いた。この両者の対立は宿敵と表現できる程で、神聖ローマ帝国の死亡(ウェストファリア条約)まで数百年に及ぶ抗争が繰り広げられることになる。

エーゲリ湖
今では主要な交通路からも外れている、のんびりとした湖

この湖畔が戦場となる
至って平和な湖畔が数千の死体で埋まった

エーゲリ湖のシュヴィーツ側は両側に山が迫る狭隘地となっている

戦場となったこの狭隘地に今は小さなチャペルが建っている

モルガルテンの戦場にある説明図
1315年、2000の騎兵を含む約9000名のハプスブルグ軍とスイス盟約軍がここでぶつかる。この狭隘地にまんまとおびき寄せられたハプスブルグ軍は、縦に長く間延びしてしまった。両脇は山、後ろは湖、逃げ場がない。そのとき武装農民軍(スイス盟約軍)は前方を塞ぎ、かつ右側の山の上から、石や木を投げ落とす。完全に浮き足立ったハプスブルグ軍を農具を改造して作った槍などで殺しに殺しまくったそうだ。
当時の戦いは、騎士どうしの一騎打ちがマナーだった。それを根底から打ち破る奇襲作戦にハプスブルグ軍は翻弄されたわけだが、当時としては卑怯な手段であった。ハプスブルグ側の記録には、その戦いぶりはただ野蛮であった、と記されたそうだ。でも、勝てば官軍である。

この写真の位置から石や木を投げ落としたんだそうだ。下にいたハプスブルグ軍はなす術もない。ここから混乱した様子が一望出来ただろう。

写真中央に建っている白い家あたりをハプスブルグ軍は通っていて、その両脇からも攻撃が加えられた。

こんな真下に敵がいるんだったら、もう落とし放題だ。ハプスブルグ軍は圧倒的な軍備を誇っていたのだが、慢心して油断しきっていたのだ。スイス軍はそこを突いて、地の利と戦略と諜報を駆使してこれを打ち破った。しかも、捕虜を取らず徹底して殺したという、農民とは思えない戦法だ。
後ろに反ハプスブルグ家勢力の軍事顧問がいそうだな。

スイスはこの戦いに勝利した後、ルツェルン近郊のゼンパハ(1386)、グラールスのネーフェルス(1388)における戦いでもハプスブルグ家を打ち破り、ハプスブルグ家はスイスから追い出される事になる。

スイス建国は1291年のスイス原三州による永久盟約の成立をもってとされているが、その後100年近い歳月をかけ、独立戦争に勝利を収め、スイスの土地よりハプスブルグ家の支配を駆逐していく過程で成立して行ったというのが実際のところなのだろう。

実質的なスイスの独立は14世紀後半に確立されていったのだが、神聖ローマ帝国からの正式な独立は1648年のウエストファリア条約によってである。この条約は神聖ローマ帝国の死亡診断書とも呼ばれている。古い帝国の死亡と共に、晴れて正式な完全独立が認められたということだろう。

神聖ローマ帝国はもともと皇帝の支配力が弱く、封建領主の集合体で、毒にも薬にもならない領主が選挙で選ばれて皇帝になるという状態だったので、帝国の死亡診断書が出された後も、封建領主たちの力の均衡の上に細々と生きながらえていた。これが完全に終焉するのは1806年。止めを打ったのはナポレオン。死亡診断書が出されてから150年強たってのことだった。

スイスの宿敵ハプスブルグ家は神聖ローマ帝国内の諸侯としてスタートし、その後王権を世襲するまでに権勢を誇ったが、何故か自分の故郷(現在のアールガウ州)では振るわず、追い出され、今や無視されている。1806年、神聖ローマ皇帝を退位、その後第一次大戦の敗戦をもって1918年に崩壊した。諸行無常。

しかし、ハプスブルグ家の子孫は今もスペイン、ベルギー、ルクセンブルクの君主位継承権を保持しており、それによって将来一族が君主に返り咲く可能性はあるんだそうだ。