日記でスイス旅行-モルガルテン他
![]() ヨーロッパで一番高いぶどう畑 |
![]() ぶどう畑をよぎる道路 |
![]() ヨーロッパで一番高いところにあるぶどう |
![]() ヴィミスの城 |
![]() ヴィミスの村 |
![]() 我が家のお花畑 |
![]() 我が家のお花畑2 |
![]() ひまわり満開 |
![]() 花は天を目指す |
![]() アンナ・ゲルディ小道 |
![]() アンナ・ゲルディ博物館 |
![]() アンナ・ゲルディに関する書物やDVD |
![]() ひっそりとした村、モーリス |
![]() モーリスのぶどう畑 |
![]() ニーダーウルネンのぶどう畑 |
![]() ニーダーウルネンから見える山 |
![]() モルガルテンの戦い記念碑 |
![]() こんな山の中の出来事 |
![]() エーゲリ湖 |
![]() この湖畔が戦場となる |
![]() エーゲリ湖のシュヴィーツ側は両側に山が迫る狭隘地となっている |
![]() 戦場となったこの狭隘地に今は小さなチャペルが建っている |
![]() モルガルテンの戦場にある説明図 |
![]() この写真の位置から石や木を投げ落としたんだそうだ。下にいたハプスブルグ軍はなす術もない。ここから混乱した様子が一望出来ただろう。 |
![]() 写真中央に建っている白い家あたりをハプスブルグ軍は通っていて、その両脇からも攻撃が加えられた。 |
![]() こんな真下に敵がいるんだったら、もう落とし放題だ。ハプスブルグ軍は圧倒的な軍備を誇っていたのだが、慢心して油断しきっていたのだ。スイス軍はそこを突いて、地の利と戦略と諜報を駆使してこれを打ち破った。しかも、捕虜を取らず徹底して殺したという、農民とは思えない戦法だ。 スイスはこの戦いに勝利した後、ルツェルン近郊のゼンパハ(1386)、グラールスのネーフェルス(1388)における戦いでもハプスブルグ家を打ち破り、ハプスブルグ家はスイスから追い出される事になる。 スイス建国は1291年のスイス原三州による永久盟約の成立をもってとされているが、その後100年近い歳月をかけ、独立戦争に勝利を収め、スイスの土地よりハプスブルグ家の支配を駆逐していく過程で成立して行ったというのが実際のところなのだろう。 実質的なスイスの独立は14世紀後半に確立されていったのだが、神聖ローマ帝国からの正式な独立は1648年のウエストファリア条約によってである。この条約は神聖ローマ帝国の死亡診断書とも呼ばれている。古い帝国の死亡と共に、晴れて正式な完全独立が認められたということだろう。 神聖ローマ帝国はもともと皇帝の支配力が弱く、封建領主の集合体で、毒にも薬にもならない領主が選挙で選ばれて皇帝になるという状態だったので、帝国の死亡診断書が出された後も、封建領主たちの力の均衡の上に細々と生きながらえていた。これが完全に終焉するのは1806年。止めを打ったのはナポレオン。死亡診断書が出されてから150年強たってのことだった。 スイスの宿敵ハプスブルグ家は神聖ローマ帝国内の諸侯としてスタートし、その後王権を世襲するまでに権勢を誇ったが、何故か自分の故郷(現在のアールガウ州)では振るわず、追い出され、今や無視されている。1806年、神聖ローマ皇帝を退位、その後第一次大戦の敗戦をもって1918年に崩壊した。諸行無常。 しかし、ハプスブルグ家の子孫は今もスペイン、ベルギー、ルクセンブルクの君主位継承権を保持しており、それによって将来一族が君主に返り咲く可能性はあるんだそうだ。 |