スイスの歴史・スイス誕生の旅


私は現在スイスに住んでいるので、やはりスイスの歴史には興味を持つ。その土地を理解するのには、その土地の過去を知る事が必要だ。そうすることによって、今ある美しい街並みや風習、スイス人の考え方などがより深く理解出来るようになる。またスイスに関する知識が単なる表面的なものではなく、ひとつの流れを持ったものとしてつながって行く。無味乾燥とした並列的な情報が、その流れに関連付けられて奥深い意味を持つものに変身していく。活き活きとしたものとなっていく。また、その流れを知る事はスイスがこれからどこに向かうのかを知る指標ともなってくれる。

スイス人も意外に自分の国の歴史を知らない事が多い。アヴァンシュというローマ遺跡の残る町を訪れた時、町のツーリストオフィスでアヴァンシュの近くにあるムルテンのパンフレットをもらった。そこで、ムルテンはブルゴーニュ公国と戦いましたね、と聞くと、オフィスの人はぽかんと口を開けて、「あったんですか?」と逆に聞き返された。多分学校では自国の歴史として教えられたのだろうけれど、忘れている。一般的な歴史授業の問題点というか、単なる事象の羅列が多いものだから、歴史がその後自分の中に価値のあるものとして残らない。

日本はそれでも高校で「世界史」という授業があって、西洋を中心とした歴史を学ぶ。しかしスイスでは、こうした歴史授業は専門分野であって、一部の人が選択科目として履修しているに止まっている。だから同じヨーロッパでも他国の歴史について疎い人が大半だ。まして中国の歴史など絶対に学ばないから、いつまで経っても中国、アジアは未知の国だ。訳のわからない事をスラングで「キネージッシュ(中国的、中国人)」などという。

因みに日本の理解も大変薄いので、多くのスイス人にとって中国と日本の区別が出来ていない。だからスラングが「キネージッシュ」だと言って日本人も安心できない。何故なら、日本は「キネージッシュ」の一部なのだから。私が今まで会ったスイス人で、何の前情報もなく私を日本人とわかった人はいない。ほぼ「中国人」だと思われる。ただ、ここの図式は日本に限らず、中国人=アジア人だ。

唯一の救いは、スイスには沢山の日本人観光客が訪れるので、挨拶くらいの日本語を知っている人が多い事。私が日本人とわかると「こんにちは」と挨拶される事が結構ある。当然、その後日本語の会話が出来るわけではない。たまにステレオナイズされた情報から日本人と判断されることもある。私は眼鏡をかけているので、カメラを持ってうろうろしていると、日本人と初めから思わることもある。

日の丸の国旗でも服にあしらって歩けば、ああ日本人だと誰もが思ってくれるかも知れない。ただし、日の丸が日本の国旗だとわかっていればの話だが・・・。ヨーロッパでは自分の国の国旗を掲げたり、色々なものにあしらったりするのは当たり前だから、日本人が日の丸背負う事も別に違和感を持たないだろうが、日本人が日の丸背負った日本人を見ると、あれは右翼か?と疑われてしまうという問題点がある。話が外れてしまった。

今までこつこつと調べて来たスイスの歴史を自分なりにまとめて紹介しようと思う。


スイス誕生、写真ツアー


歴史紹介

アヴァンシュ(Avenches)、スイスのローマ都市
現在のアヴァンシュは中世の城塞都市の面影を残すものとなっているが、その昔はローマ植民都市としてスイスの中心を成す都市だった。ローマがスイスを支配する前は、この地にケルト系のヘルウェティー族が住んでいたのだが、シーザーによって滅亡されてしまった。しかし皆殺しではないので、ケルトの血も残されており、またスイスの東にはやはりケルト系のラエティア族がいた関係で、スイスにはケルト由来の語句が多い事で知られている。スイスのアルプスの奥深くには、秋田のなまはげみたいな祭りもあって、スイス独特の伝統文化を形成しているのだが、これらは多神教を旨とするケルトやゲルマンの土着信仰の継承だ。この様にヨーロッパに存在していたキリスト教以前の文化を、今なお色濃く残しているというのもスイスの魅力の一つといえる。


1.ケルト族支配時代

 Google Earthという無料ソフトをご存知だろうか、このソフトをインターネットからダウンロードしてパソコンにインストールすると世界中の衛星写真を見る事が出来る。このソフトの地名検索で「スイス」と入力すると、スイスの全土の衛星写真が現れる。因みに、立体的にも表示してくれるので、スイスと言う国がどういう地形かというのが一目でわかる。実に優れ物のソフトだ。しかもただだというのがうれしい。

 スイスという国土を概観すると、南半分は標高4000m級の山々を抱える山岳地帯であることが明瞭にわかる。北半分は比較的緩やかな丘陵地帯が広がっている。しかし丘陵地帯にも山塊が入り込んでいて、実際に人が住めるのは湖の周辺、河川の周辺といったところだ。北半分に広がる丘陵地帯の北縁は再び山脈が迫っている。フランスと国境を接するスイス北部はジュラ山脈、ドイツと国境を接するスイス北部はシュヴァルツヴァルドがスイスに食い込んで来ている。この様な土地柄なので、スイスの7割強が山間部で占められており、古くから人が住めたのは、主にスイスの北寄り中央部に広がる丘陵地帯だった。(Google Earthで確認されることを推奨)

 この中央丘陵地帯に入って来たのがケルト人で、紀元前より鉄器文明などを築いていた。ケルト人は中央アジア出身だそうだ。一概にケルト人といっても、沢山の部族に別れていて、それぞれ領土争いなどを繰り広げていた。今の中央丘陵地帯に住んでいたのはヘルウェティ族と呼ばれる人々だった。このケルト部族はシーザーによって滅ぼされてしまう。その後、この地域はローマの支配下となった。ローマ帝国はアヴァンシュに街を築き、ここを中心にしてスイスを殖民支配した。アヴァンシュはローマ帝国の町だったので、今でもローマ遺跡が残っている。闘技場も残っていて、そこでも奴隷闘士が戦ったのだそうだ。

 ヘルウェティはHelvetiiと書く。現在のスイス連邦の正式名称は「Confederatio Helvetica(ラテン語)」直訳すればヘルヴェティア連邦となる。このヘルヴェティアは先住民族であった、ヘルウェティから取られている。それに対してスイスの各公用語ではシュヴァイツ(独)、スイス(仏)、スヴィッツェラ(伊)といい、日本ではフランス語発音のスイスを採用して、スイス連邦としている。一国に複数の言語圏をかかえるスイスは、どの公用語にも偏らない様にラテン語のConfederatio Helveticaを正式名称としているのだ。通貨の略称もCHFと用いられるのはConfederatio Helvetica Francが正式なため。

 ヘルウェティ族は民族の6割がたがローマ軍によって殺されたらしい。しかし生き残りの一部が中央丘陵地帯に戻り、ローマ人に支配された。さらにはローマの衰退と共にゲルマン人がこの地域に入ってきて、完璧に吸収されてしまった。

2.ローマ人支配時代

 ケルト人の次にスイスの地を支配したローマ人はアヴェンティクムという町を作り(現在のアヴァンシュ Avenches)、さらに北方の防備を固めるために、ジュネーブ、ローザンヌ、バーゼル、チューリッヒなどの町を築いた。当時の町は城塞都市で領土の守護を目的として作られたのだ。これらの都市はその後順調に発展するが、かつての大都市アヴァンシュは哀れ、その後に勃興したフリブール、ベルンに呑み込まれ、さながら遺跡の町と化して現在に至っている。

 ローマ支配のスイスは北方からの侵略、とくにゲルマン系のスエビ族の圧力を受けていた。やがてローマ帝国が東西に分裂し、主力が東のコンスタンツに移ると、ゲルマン系民族の活動が活発になった。西に残った西ローマ帝国は南下してくるゲルマン系民族を抑える事が出来なかった。おりしもゲルマン系民族のゴート族が中央アジア系のフン族に押され、東ヨーロッパから中央ヨーロッパへと移動を開始する。北からはスエビ族やブルグンド族の圧力を受ける、こうしてローマはヨーロッパでの植民地を失い、ついにはゲルマン傭兵であったオドアケルにローマが陥落、西ローマ帝国は崩壊した。

 こうしてヨーロッパはゲルマン系民族の諸族が割拠する状態となった。ゲルマン民族と言っても一枚岩ではない、沢山の部族がお互いに勢力争いをしていたのだ。ゲルマン民族はこの様ないきさつがあるので、ゲルマン民族としての結束力はきわめて薄い。

 北の民が南に進出するのは洋を問わず同じであることが興味深い。北の民は厳しい自然の中で鍛えられる。当然強靱となる。そしてもっと温暖な、食料が豊富な土地を求めて南を目指すのだ。南の民は豊かな環境に慣れ、徐々に弱体化する。そしてある時点で北の民に征服されるのだ。こうして北の民が南の民となり、空白となった北の地には新たなる部族が住処を求めてやってくる。民族は南方循環する(高川)。

3.ゲルマン系諸族の割拠時代

 スイスの中央丘陵地帯には、スエビ族とブルグンド族が入ってきた。スエビ族がこの丘陵地帯の中央から東に勢力を張り、ブルグンド族が西に勢力を張った。これが、スイスのドイツ語圏、フランス語圏をつくるきっかけとなった。

 スエビ族はもともとドイツ北部にいた部族で南下してスイスに入った。スエビ族の勢力範囲はドイツ南部とスイスだった。ドイツ南部ではその名残を残しており、スエビ族の支配した一地方をシュヴァーベンと呼んでいる。スエビ族は周辺のゲルマン系諸族と合同してやがてアラマンネン公国を形成する。これが一時期中央ヨーロッパの中心的存在となった。ドイツ語では当時アラマンネン、英語発音ではアレマンとなり、ここからスイスドイツ語圏の先祖をアレマン人とする説明がされている。

 ブルグンド族は、スエビ族の東のお隣さんだった。ブルグンド族は南西に移動し、ブルゴーニュ、アルザス、ドイツのバーデン地方一体に勢力を張った。しかしやがて台頭するフランク族に飲み込まれていく。西ヨーロッパに勢力を張ったゲルマン系部族は、かつてガリアと呼ばれた西ヨーロッパ地方の征服をしていく過程で、ローマ文化を吸収し、ケルト人、ローマ人の懐柔目的もあって、俗ラテン語を用いるようになった。この俗ラテン語が今のフランス語の元となっている。それに対して東のアレマン人などは、ゲルマンの文化、言語を守り続け、今のドイツ語を残している。

 フランク族はスエビ族の西のお隣さんだった。フランク族は移動というより、南西へ膨張しパリ周辺を拠点として発展した部族で、その名前がフランスの元となっている。フランク族にとって、東に勢力を張っていたアラマンネンはライバル的存在だった。フランスの東隣はアラマンネンで、フランス語発音でアラモンの国、そこから今のドイツをフランス語でアラモーニュと呼ぶようになる。英語でドイツをジャーマンと呼ぶのは、当時ローマがこの地域をゲルマニアと呼んでいたことに依拠しており、イタリア語のジェルマニアと同じ。

 余談だが、ドイツ自体は自分達の国をゲルマニアとかアラマンネンと呼ばず、ドイチュラントと呼ぶ。ドイチュに民衆のという意味があり、「自分達の国」と自分達は呼んでいるということになるだろう。

 スイスの民族的構成は、アレマン人、ブルグンド人、ランゴバルド人、ラエティア人となっている。先の説明で、アレマン人、ブルグンド人は説明できたと思う。次にランゴバルド人。この人々の本拠地はイタリア北部であり、前出と同じゲルマン系民族。もともとはスカンジナビア半島に住んでいたらしい。それがはるばる東のハンガリーを経由して南下、オーストリー側からアルプスを越えてイタリア北部に入って王国を建設した。なんとも長い旅だ。ランゴバルド族はローマに同化して行き、イタリア語を用いるようになった。これがスイスイタリア語圏の生まれるきっかけとなった。

 ラエティア人はエトルリア(イタリア中央部にいた先住部族)を起源にもつとされるが、スイス東部、オーストリー・チロル地方、ドイツ・バイエルン南部の一帯に勢力を持つ頃にはケルト人に支配され、ケルトに同化したためにケルト人としてみなされている。このスイス東部にいたラエティア人が次第にアレマン人、ゴート人に圧迫されて現在のグラウビュンデン州の山岳部に追い詰められて行った。言葉は古代ローマ語の一つといわれるロマンシュ語を使う。

 こうした人々の末裔が今のスイスの国土に住んでいるため、スイスの公用語はドイツ語、フランス語、イタリア語、ロマンシュ語の4つの言語となっている。なお、ドイツ語だが、スエビ族の用いていたゲルマン語が元となっているため、標準ドイツ語とはかなり異なっている。

 整理すると、スイスの地は記録のあるところまで遡ると、ケルト諸族の国で、主にはヘルウェティ族の国だった。しかし、一部スイス東部はラエティア族の国だった。アルプスの南側に位置するスイス南部はローマの支配下にあった。ローマ人がヘルウエティを滅ぼし、ヘルヴェティアはローマの植民地となり、ラエティアは属州となった。ローマが衰退すると、ゲルマン系諸族が入って来て、スエビ族、ブルグンド族、ランゴバルド族が割拠した。ケルト系と看做されるラエティア族はアルプス山間部に追い詰められた、ということになる。

 スイスは西ローマ帝国崩壊(476年)と共にゲルマン人の国となった。ただし、スイスと言う国土は当時存在しておらず、ゲルマン系諸族がその一部をそれぞれ支配下に置いていた。日本はこの頃大和時代を迎えていた。

4.フランク族による統一、そして分裂

 フランク族はパリ周辺を拠点とするゲルマン系部族で、現在のフランスの語源ともなっている。フランク族は勢力を拡大し、フランク王国を建設。カール大帝の時代にその版図が最大となり、東ヨーロッパから西ヨーロッパまで一帯となった。彼はゲルマン諸族を統一し、スイスもフランク王国の版図となった。

 カール大帝はローマ教会より西ローマ帝国皇帝の戴冠をしている(800年、その頃日本は奈良時代)。ここにゲルマン族の西ローマ帝国が誕生する。しかしゲルマン系諸族はもともと連帯感に乏しく、独立自由の気風が強い。また、遺産を子供が分割するという風習のため、カール大帝の没後、暫くしてフランク王国は3つに分裂した。西フランク王国、中央フランク王国、東フランク王国が並び立ち、これが紆余曲折の後、西がフランス、中央がイタリア、東がドイツの原型となった。

 スイスは最終的に東の版図となり、東フランク王国の後継である神聖ローマ帝国の所領となった。神聖ローマ帝国内でアレマン族は中心的な勢力だった。といってもスイスは諸侯や教会によって切り刻まれ、ばらばらに統治されていた。ゲルマン系部族は独立自由の気風が強く、スイスのアレマン族がスイスアルプスの開拓に乗り出すと、開拓された土地に自由民と呼ばれる人々が誕生していった。当時の農民は通常諸侯や教会の支配を受ける不自由民の身分だった。こうしてスイスの山間部に横たわるウーリ、シュヴィーツ、ウンターヴァルデン州で自由農民が台頭し、次第に自治権を獲得するようになって行く。

5.ゴッタルド峠の開通と建国

 ゴッタルド峠の開通は諸説があるが、12世紀後半が有力視されている。ゴッタルド峠はイタリアと神聖ローマ帝国(当時の中心はドイツ南部)を最短距離で結ぶ交易路として発展した。この峠は軍事拠点としても大変重要な意味があった。当時この地域は有力諸侯であるツェーリンゲン家の勢力範囲であった。ツェーリング家はフリブールやベルンといった町を作り、スイス一帯を勢力圏に収めていた。皇帝としてはこの峠を諸侯に握られる事は自分の地位を脅かすことになりかねない。

 折りしもツェーリンゲン家が断絶し、その遺領相続で混乱した空白を突いて、ウーリの自由民が自治権の買収に成功し、皇帝から自由特許状を得た。皇帝としても諸侯に領有されるよりは、地元住民に自治を与え、皇帝に忠誠を誓わせた方が得策だったのだ。ウーリ州はゴッタルド峠の下に位置していて、この峠による交易によってかなり潤っていた。これがウーリ州の独立のきっかけとなる。

 続いてシュヴィーツ州、ウンターヴァルデン州が皇帝の思惑から次々に自由特許状を取得していく。これらの州はウーリ州に続いてゴッタルド峠の下にあって、交易上重要な拠点であった。因みに、スイスの他にあるアルプス越えの峠が、ずっと以前から開通していたのにゴッタルド峠は12世紀後半まで開通が遅れた理由は、現在のゴッタルドトンネルの入り口にある町ゲシュネンと、峠直下の町アンデルマットの間にあるシュレネン渓谷があまりに急峻すぎて開拓が困難だったためだ。この渓谷に「悪魔の橋」という名の橋がある。この橋の名の由来は、急峻すぎる谷に人の手ではどうしても橋を架ける事が出来ず、悪魔と契約し、悪魔の手を借りた、といういわれによる。

 13世紀当時、農民が皇帝から自由特許状を得るなどは例外的存在だった。それほどまでにこのゴッタルド峠の街道確保が神聖ローマ帝国にとって重要だったということだ。

 そんな重要な所だから、当然自分のものにしたいと思う諸侯が出てくる。それが後の名門王家ハプスブルグ家だ。ハプスブルグ家はツェーリング家の遺領を受け継ぐと共に、徐々にゴッタルド峠への支配に着手していった。そしてシュヴィーツ、ウーリなどの守護権を手にしている。ウンターヴァルテンでは広域に領主権まで手にしている。これに危機感を募らせた、シュヴィーツ、ウーリ、ウンターヴァルデンの3州は、独立自治を守るため、相互防共協定を結ぶ。これが1291年8月1日の四森林州湖湖畔のリュトリの丘における永久盟約で、これをもって今のスイスは建国としている。8月1日は建国記念日となっている。日本はその頃鎌倉時代を迎えていた。

 現在のスイスの国土を見ると、この原3州と呼ばれる最初のスイス国土は、アルプスの端にしがみついた山中の小さな地域であることがわかる。それまでケルト人が、ローマ人が闊歩したスイスの主要地域から程遠い。しかし、この人たちは強かった。ハプスブルグ家から見ると、野蛮で強かった。

6.ハプスブルグ家との戦い

 ハプスブルグ家はスイス中央部で勢力を伸ばし名をあげた貴族で、11世紀には今のアールガウ州に居城を求めている。その城がヒビヒット(鷹)ブルグ(城)と呼ばれた所から、ハプスブルグの名前が出ている。現在もその古城が残っており、地名もハプスブルグとなっている。ハプスブルグ家は自らをシーザーの末裔と名乗ったらしいが、こうした身分詐称もハプスブルグ家のお家芸と言われている。武功で家門を建てたというよりは、権謀術数、婚姻政策などで勢力を伸ばた。それは「戦争は他家にまかせ、汝は結婚せよ」が家訓と言われるほどである。

 ハプスブルグ家最初のドイツ王ルドルフ1世がオーストリアの地を手に入れた後は、代々神聖ローマ皇帝を出す名門王家に成長していく。しかし、スイスとの争いに関してだけはまるでいいところがなく、連戦連敗してスイスの地を追われる事となった。当時弱小のスイスを舐めきっていた、というのもあるが、オーストリア、ハンガリー、チロルなどスイスよりもっと美味しい土地への勢力拡大の方に忙殺されたという事情もあった。

 1273年にハプスブルグ家のルドルフがドイツ王ルドルフ1世となった。これは諸侯のバランスの上に祭り上げられた、大した実権のない王だと言われている。彼はしかしツェーリング家の遺領を徐々にまとめ、いつでも原3州に侵攻出来る体制を整えていた。幸か不幸か、ルドルフがボヘミア王との戦いに勝利し、オーストリーが手中に入ると、その運営に忙殺され、スイス制圧まで手が回らなかった。しかし、彼のスイス領獲得は着々と進められ、その結果彼の晩年に、彼の所領となった原3州の周辺の土地で大増税が行われた。

 これを見た原3州はいよいよ危機感を募らせ、彼が没した同年の1291年に永久盟約を結んだ(以降これによる同盟を盟約同盟と呼ぶ)。ルドルフの没後、アルプレヒトが跡を継ぐが彼は王位をナッサウ家と争って敗れてしまう。すると反ハプスブルグの動きが各地で活発化した。永久盟約もこうした流れの中での出来事だった。その後アルプレヒトはナッサウ家を倒して自分が王位に就くが、その王位を守る事に精一杯で盟約同盟の制圧まで力がまわならかった。そうこうしているうちに身内の権力争いが原因で彼は暗殺される。14世紀前半のハプスブルグ家は分裂騒動などもあって一時勢力が衰えた。

 アルプレヒトの後、ハプスブルグ家は王位から遠のくが、王位を伺う勢力は保持していた。1311年にハプスブルグ公とバイエルン大公が王位争いをする事となり、盟約同盟はバイエルン側についた。この反ハプスブルグの行動は激化し、ハプスブルグの息のかかったアインジーデルン修道院(現在はシュヴィーツ州)と近くのシュヴィーツ農民が領有権で抗争激化、農民が修道院に侵攻し、ついに修道院がハプスブルグに助けを求めるに至った。修道院を侵すなど非道な真似の様に見えるが、当時修道院は広大な所領を持ち、その院長は貴族出身で持ち回りされていた。

 ハプスブルグ家のオーストリア公レオポルト1世が騎士軍団を率いてシュヴィーツに出陣した。この騎士軍団と盟約同盟の兵団(盟約側には騎士がいなかった)が1315年に戦闘となった。シュヴィーツのエーゲリ湖湖畔のモルガルテンで、同盟軍が行進する騎士軍団に奇襲する。これがモルガルテンの戦いだ。この戦いでハプスブルグ軍は壊滅し、盟約同盟の地位が確立された。

 このモルガルテンというところは、現在のシュヴィーツ州にあるちょうどエーゲル湖からシュヴィーツに向う途中の峠に位置し、両脇が山に挟まれている。ここでハプスブルグ軍は縦長に間延びした。同盟軍はそこを山の上から岩などを落とし隊列を混乱に落としいれ、一気に叩き潰した。まさに地の利を得た戦闘の勝利だった。またこの時同盟軍が使った兵器は、槍の先に斧がついているようなもので、斧の部分で騎士を馬から打ち下ろし、槍で串刺しにするという、農具を改造したようなものだった。

 中世の騎士の戦闘は、騎士同士が一騎打ちするという騎士道に則ったものだが、同盟軍はそれを全く無視した密集歩兵による一撃必殺の殺戮軍団だった。この戦闘方法は改良され、後にスイス傭兵の強さの根源となる。ハプスブルグ軍はモルガルテン以降も、同盟軍の倍以上の兵力をもって何度も戦ったのにも関わらず、常に同盟軍に負けた。それほど同盟軍は強かった。しかし、当時の伝統をぶち壊す戦い方でもあったので、ハプスブルグ側から見ると野蛮人に映る。スイスは強くて野蛮というわけだ。もっとも勝てば官軍である。

7.8州盟約同盟以降

 モルガルテンでハプスブルグが大敗したことを受けて、盟約同盟周辺の都市が次々に反ハプスブルグの姿勢を強めた。ここにようやく、ヘルウェティの地がスイスに含まれていく契機が出来た。1386年、ルツェルンのハプスブルグへの反旗を発端とするゼンパッハの戦いで盟約同盟軍が勝利し、1388年にはグラールスがシュヴィーツの助けを受けて、ネーフェルスの戦いでハプスブルグ軍を打ち破る。ここに至ってハプスブルグの敗退は決定的となった。

 この時点で盟約同盟は8つの州が加盟しており、8州同盟時代が到来する。この頃からハプスブルグ側から盟約同盟がシュヴァイツ(スイス)と呼ばれるようになり、今のスイスという名称が使われだした。シュヴァイツは原3州のシュヴィーツ州がその語源となっている。アインジーデルン修道院侵攻以来、シュヴィーツ州はハプスブルグにとって仇敵に近い存在だったのだろう。8州同盟時代、当時権勢を誇ったブルゴーニュ公を打ち破るなどにより、スイスの国際的地位が高まった。また、スイス歩兵の強さが広くヨーロッパに知らしめられた。

 スイスの国旗もシュヴィーツ州のものが原型となっている。皮肉な事に、このシュヴィーツ州の赤地に白十字の旗は、ハプスブルグ家のルドルフ1世が1289年に使用を許したものだ。スイスはハプスブルグ家との対立から生まれた国だが、その国名、国旗はハプスブルグ由来なのだ。

 1499年、時の皇帝マクシミリアン(ハプスブルグ家)が制定した一般帝国税をスイスが拒否。スイスはまだ神聖ローマ帝国の属邦という立場だった。スイスに接する南ドイツのシュヴァーベン地方の諸侯はスイスと経済的に競合していたので、皇帝とシュヴァーベン諸侯対スイスの戦争が勃発した。これがシュヴァーベン戦争で、これまたスイスが勝利を収める。ここに至って、神聖ローマ帝国はスイスでの徴税権、裁判権を放棄せざるを得ない事になり、スイスは事実上の独立を達成した。

 もっとも、シュヴァーベン、スイス、ハプスブルグなどは元はスエビなのだから、同族争いの延長劇とも言えなくはない。スイスの勢力拡大は順調に進み、1513年には13州に膨れ上がった。しかし1515年にミラノを巡る紛争でフランスに大敗し、その領土拡大は終わり、スイスは以降中立と内政重視に向かう事になる。これは18世紀後半まで続き、盟約同盟13州の勢力が固定化された。

 この13州同盟時代に宗教戦争が吹き荒れ、一時スイスにも波及し、カルヴァン、ツヴィングリなどの著名な宗教改革者を出している。にも関わらずプロテスタント派とカトリック派両者の間にかろうじて妥協が成立し、国土の荒廃、分裂を免れた。これは盟約こそスイスの根源であり、その為には無理でも妥協するという伝統の象徴となった。

 ヨーロッパで宗教戦争に一応の決着が見られ、ウエストファリア条約が1648年に結ばれた際、スイスは法的に神聖ローマ帝国から独立した。一応の建国から実に357年後だった。列強、特にフランスがスイスの傭兵欲しさに、独立を後押しした結果だった。フランスはスイス傭兵のお得意様だった。その頃の日本は江戸時代初期を迎えていた。

 このウエストファリア条約で、スイスのほかオランダが独立し、ドイツ諸侯の独立性も保障された結果、事実上神聖ローマ帝国は崩壊した。よって、ウエストファリア条約を神聖ローマ帝国の死亡診断書とも呼んでいる。

8.スイス連邦の成立

 18世紀後半、ナポレオンが登場すると、さしものスイスもナポレオンに屈することとなった。フランスの傀儡政権で、中央集権を目指すヘルヴェティア共和国がスイスで成立した。この共和国はスイスの実情に合わなかったため、短命に終わった。しかしこれは後のスイス連邦成立への礎となった。

 ナポレオンが失脚し、ウイーン体制が成立すると、再度スイスは独立が認められ、永世中立が認められた。このナポレオンによる混乱期(1798-1815年)に、いくつかの州が正式に盟約同盟に加えられ、22州となった。当時の領土範囲が変更なく現在まで続いている。ただし、1979年ユラ州がベルン州より分離した結果現在は23州となっている。そのうち、バーゼルがバーゼル市とバーゼルランドの半州に分かれ、アッペンツェルがインナーローデンとアウサーローデン、ウンターヴァルテンがオヴヴァルテンとニドヴァルテンの半州にわかれている。半州を加えると26州となる。

 1847年にスイスのカトリック諸州が分離同盟を結び、独立の動きを見せると内戦が勃発した。これは自由主義的なプロテスタント諸州に対する反発から端を発している。いわばスイスの守旧派と自由派の闘争だった。結局盟約側(自由派)が勝利し、スイスに近代国家の礎が築かれた。翌年の1848年に連邦制度が採択され、今のスイス連邦が成立した。日本の明治維新(1868年)の20年前にあたる。

 1847年の内戦がスイスでの最後の戦争だった。対外戦争はそれ以前の1515年が最後となる。また連邦の成立と共に、スイス傭兵は禁じられ、スイス傭兵の歴史の幕が閉じた。唯一バチカンの教皇庁を守る護衛兵にスイス傭兵が残っているが、これは伝統的に続けられているもので、現在スイス政府は関与せず、ヴァリス州のレッチェンタルだけが窓口となっている。

 スイス傭兵は義理堅く、教皇ユリウス2世がどんなに孤立しても彼を守り通したという実績があり、それが今のバチカン・スイス護衛兵の伝統を残した。現在は兵と言うよりは警備員に近い。

 スイスの連邦制は盟約同盟からの発展という歴史的経緯から、各州の自治権が大幅に認められるものとなっている。連邦の役割は、防衛、外交、通商、連邦憲法などに限られており、その他は全て各州の自治に委ねられている。よって、スイスでは祝日も各州で異なるし、学校の制度も各州で異なっている。法律も各州で異なり、公用語も各州ごとに決められている。その自治権は独立国家に等しいくらいである。

 それで不自由がないかといえば、恐らく現在においてマイナス要因がかなり増えていると思うが、例えば山間部と都市部では生活形態も異なるし、ウーリ州の様に自由民(農民)が作った州と、ベルン州の様に都市貴族が支配した州とは、生い立ちも異なる。そうした異なった者同士がまがいなりにも一つの国家を形成していくためには、こうした強い自治権の承認が必要だったことは間違いないし、今もその要請が強い事は確かだ。

 スイスは中立国という事で、20世紀の二度に渡る大戦に参加しなかった。しかし中立と言っても無関係ではなく、国際諜報、外交などの舞台となり、両陣営との中立的通商を強いられ、政治難民たちの避難場所ともなった。またスイスを巡る国境には昼夜の別なく国境警備隊が配置された。この国境警備隊を記念して、スイスアルプスの主な峠には鷲をあしらったモニュメントが建てられている。

 特に第二次大戦においては、ドイツ、ドイツに併合されたオーストリー、占領されたフランス、ドイツ同盟国のイタリアに囲まれ、大変厳しい状況下に立たされた。この時は、女性まで招集されている。こうしたドイツの圧力によってナチスへの協力を強いられ、戦後連合国から中立違反としての賠償金を請求された。しかし、多くのスイス人にとって、それはドイツの侵略を防ぐ意味でやむを得ない妥協であったと思われている。

 ドイツは密かにスイス侵攻を狙っていたとも言われるが、結局それは実行されなかった。こうして過ぎてみると、国土は戦災から免れ、両陣営との通商を通じて巨額の富と信用ががスイスにもたらされたのだった。これをベースとして、スイス銀行やスイス保険会社、薬品、化学製品企業等が世界でも名だたる存在となって行く。しかしスイスはもともと貧しく、傭兵しか輸出するものがなかったくらいの国だったのだ。

 第二次大戦でぼろもうけしたスイス、他国の血で肥えたスイス、などなどやっかむ人も多い。しかし戦わない事、それが国を富ますこと、を実証した国として学ぶべきものは多々あるだろう。日本にとっては、資源のない国が如何に世界でも一番裕福な国の一つになれるか、日本を追い越す勢いでいる長寿の国になれるか、などについても学ぶべきものが多々あると思う。

9.スイス傭兵の評価

 スイス傭兵は、スイスが連邦制になる以前に、それぞれの邦(連邦後の州)が他の王国や諸侯と盟約を交わし歩兵を送り込んだものの総称であって、厳密に言うと盟約同盟というスイスの総体が傭兵に関わっていたわけではない。スイスが連邦制に移行すると、公的機関からの傭兵送り出しは禁止された。

 資源の乏しいスイスにとって、傭兵送り出しは唯一の基幹産業だったといわれている。スイスでもそこそこ発達した地域では傭兵の送り出しは少ないが、アルプスの谷に住む地域では傭兵送り出しが盛んで、名に知られる傭兵部隊が生まれている。これらの地域は食糧自給もままならず、男は傭兵として出稼ぎに行かざるを得なかったのだ。

 傭兵自体は古くからあるし、特にスイスのお家芸ではなかった。西ローマ帝国を倒したのが、ゲルマン傭兵の隊長オドアケルだということでもわかる。スイスを構成していったそれぞれの諸邦も以前から傭兵を出していた。例えば、シュヴィーツは1289年に1500名の兵士をハプスブルグ家のルドルフ1世の元に送っている。そもそも敵対しているはずのハプスブルグ家にもシュヴィーツ傭兵は行っていたのだ。

 スイス傭兵の名が知れ渡ったのは、そのハプスブルグ家に勝ち、後にブルゴーニュ公国を打ち破ったことによる。スイス傭兵は強い、そして容赦ない。それが敵方を震いあがらせた。その強さの秘訣は、独特な歩兵による密集戦法にあると言われている。歩兵が四角い一団となり、自由自在に動き回り、敵方の弱いところに突っ込む。切り崩されたら最後、敵は死ぬだけだ。

 また、傭兵の形態が盟約軍を取っていたため、単なる雇われ軍ではなく、スイス(諸邦)軍として戦えた、その指揮官は同じくスイス人からなっていた、というのが大きい。彼らにとって雇い主の主君に忠誠を誓うのは、祖国に忠誠を誓うのと同等だったのだ。そうでもなければ、傭兵が死に物狂いの強さを発揮することも出来なかっただろう。

 スイス傭兵はのべ200万人にも及んだ。時にはスイス傭兵同士が戦い、共に全滅するなどの悲劇があった。しかしこれと言った産業のない時代のスイスにとって、傭兵は止めることも適わなかった。さらにフランスなどの外国がスイスの中立を認める代償としてそれを望んだのだ。スイスは国内で血を流さない代わりに、国外で血を流す選択をした。これは壮絶なものだった。

 スイス傭兵がいくら誇りに満ちたものでも、当の外国にとっては雇い兵でしかない。雇い兵は常に前線に立たされるし、退却の際は最後まで残される。しかも敵方に同じスイス傭兵がいたとしても構うものではない。そうした情況でスイス傭兵の悲劇は生まれた。スイス人同士が戦って共に全滅。フランス革命に巻き込まれ、ルイ16世のスイス守備兵が全滅。ナポレオンのロシア遠征では、ロシアに残されてスイス人傭兵1万人が全滅等等。

 こうした悲劇があり、スイス人の宗教改革者ツヴィングリが傭兵を批判するなどが重なり、ようやくスイス連邦成立の際にこれが禁止されるのだった。スイスは武装中立であるからこそ、それが保たれたと言われるが、本質は武装ではなく傭兵中立だったのだ。

 確かにスイスは現在も国民皆兵制であり、兵役がある。これも侵略の防衛には役立つだろう。特に山間部のゲリラ戦に持ち込めば、相手はスイスを打ち倒すことは不可能に近い。ところが、この国民皆兵制を見ると、とても福祉の分厚い自衛訓練制度である事がわかる。まず、中立政策によってスイス民兵は国外に出る事が許されない。他国との軍事演習も出来ない。集団自衛権もない。また兵役中にする事は自衛に関する教育と訓練だけである。その上、その期間中給与の8割が会社に代わって国から支払われる。

 またスイス傭兵が示したとおり、他国に必要とされるものがあれば他国からの侵略は防げる、という事は学ぶべきものが多い。当時は兵力でしかなかったかも知れないが、現在においては、例えば多国籍企業の存在なり、人的、経済的交流の深まりが紛争防止、侵略防止に寄与している。スイスにおいては、例えばスイス銀行の存在、国連、赤十字などの国際機関、ネスレ、ロシュなどに代表される国際企業の存在がこれを証明している。

10.直接民主制の評価

 スイス建国の起源となるシュヴィーツ、ウーリ、ウンターヴァルデンの原三州は、自由民(農民)が自治を獲得した州であり、これらの州では、重要事項を州民の全員集会で決議していた。この全員集会をランツゲマインデという。ランツゲマインデは必ずしもスイス全州の制度ではなかったが、これがスイス諸州の民主制に影響を及ぼし、ひいてはスイス連邦の民主制度に影響を与えた。

 現在のスイス連邦は二院制による議会民主制となっている。その面では間接民主制を取っているのだが、国民投票(レファレンダム)、国民発議(イニシアチブ)という直接民主制の影響を残す制度が取り入れられている。また、州レベルでは、グラールス州とアッペンツェル・インナーローデン州において未だランツゲマインデが残されている。ゲマインデ(最小行政単位)レベルでは8割がたがゲマインデ集会を持っている。この様なことから、スイスは半直接民主制の国だとの評価もなされている。

 補足するとスイスの行政単位は3層になっていて、一番上が連邦、その下に23(半カントンを加えると26)のカントン(州と訳されている)、そして一番下がゲマインデだ。ゲマインデは日本で言えば市町村にあたるが、ゲマインデには基本的に日本のような区別はない。市という呼び名も別にある。バーゼル・シュタット、シュタット・ベルンなどだが、これの扱いもまちまちで、バーゼル・シュタットは半カントンの呼び名でもあるし、シュタット・ベルンはゲマインデの呼び名になっている。一般にスイスの主要な町は「市」と訳されることが多い、町と村は判然としていない。

 ドルフ(Dorf)の日本語訳が村なのだが、そうするとウーリ州の州都「アルトドルフ」はアルト村になってしまう。州都が村だ。(山岳地帯に位置するウーリ州の場合、妙に納得したりもするが・・・)スイスの集落の呼称は、大きな町以上がStadt(市)で、それ以外がDorf(村もしくは町)の2種類なのだろう。

 ざっとスイスの国民投票と国民発議について説明する。スイスの憲法改正や外交、安全保障に関する法改正には議会の可決後必ず国民投票に付さなければならない事となっている。またそれ以外に議会が可決した法案に対して、5万人以上の署名をもってその可否を国民投票に付す事が出来るなどの制度がある。そして、10万人以上の署名をもって、法律の提案を国民投票に付す事が出来る国民発議制度がある。この国民発議で賛同された提案に対しては、連邦議会が法律制定の義務を負う。

 こうした直接民主制の影響は国民の政治参加をいやがうえにも高めることになる。その面では有益なのだが、反面立法場面においては法制定に長い時間がかかってしまうなどのマイナス面もある。時間をかけても民意を大切にするというスイス人の頑なさが現れている。また女性の参政権が連邦で認められたのが1971年という遅さの訳がここにある。伝統的スイス男社会の総意としては、女性の参政権などもっての他という本音が露呈している。アッペンツェルのランツゲマインデでは、未だに女性の参加が認められていない。

 ただし、ランツゲマインデのある州でも議会が併存していて、この議会は当然女性も参加する一般選挙となっている。ランツゲマインデは伝統行事としての性格が強くなって来ている。これを見学に世界中から人が訪れる。観光客が沢山来る(当然儲かる)ので止められない、とも囁かれている。この様な保守的なマイナス面もあるが、一方民意を迅速に表明する枠割りも果たしている。

 スイス人の気質の中に合理主義があって、合理的な改革は極めて早く実行される。自分たちの有利になることにはとても目ざといのだ。ここら辺は、大国を相手に生き残る小国の知恵なのだろう。また、自国に資源を持たず、自給自足もままならない貧しい国だった民の生き抜く知恵でもあったのだろう。

 スイス人は今後も自分たちの国が大丈夫なのか、についていつも強い関心を持っている。今や、世界でも有数の裕福な国の人達がである。資源を持たない国、自然環境の厳しい国としての不安定さをいつも身にしみて感じているのだ。反面こうした意識が、自分たちのための政治参画意識につながっている。

 国会議員が私企業の会社役員を兼任しているなども許されている。彼らは自分らの産業分野の利益を堂々と議会で代弁している。国会議員は国に奉仕するものではなくて、様々な分野で活動する民衆の代弁者ということなのだろう。国民発議という直接民主制的な立法制度などもこうした変革への促進剤となる一面がある。

11.日本の参考に

 スイスは日本人には理解が難しい国かも知れない。スイス人にとってスイスとは一つのまとまった存在ではなく、様々な利害集団の総体にしか過ぎない。だから、連邦政府は自分たちの利益を保障する場であって、連邦政府の存続それ自体に優先権はない。だとしたら国がばらばらにならないかと懸念されるのだが、封建制であった時代から、自由民の自治を標榜し、それによって国土を保全してきたスイスは、この体制なくして自分たちの生活も成り立たないことを骨身にしみて知っている。それ故に、内側ではばらばらなのにも関わらず、外側に対してはスイスとして強くまとまるのだ。

 保守的なドイツ語圏の諸州とリベラルなフランス語圏の諸州は対立することが多い。しかしだからといって、フランス語圏の諸州がスイスを離れフランスに領属するなどはあり得ない。例えフランス語が母国語だとしても、スイス人はスイス人たり続けるのだ。

 今の日本を見ていると、少し直接民主制を取り入れてもいいような気がする。小泉内閣以降自民党は議会において強い政権党として存在してきた。ところが、小泉以降の首相はどれもが1年以内に辞任するという無責任ぶりだ。要するにやりたい放題をしているのであって、そこに国民の民意は存在していない。今の日本の制度では、これを改めることは出来ない。

 ならば議会政治に国民が直接NOと言える、スイスの国民投票制度、国民発議制度などの導入を日本において試みても有益なのではないだろうか。日本にも国民投票制度があるが、これは憲法改正のみというとても限られたもので、これでは不十分といえる。

アヴァンシュのコロセウム(円形闘技場)
ここでも奴隷対奴隷の殺し合いや、奴隷対ライオンなどの猛獣との戦いが繰り広げられたのだそうだ。

ここら辺は、ローマの神殿があった遺跡
この他公衆浴場の遺跡とか、防壁門とかがある。当時は混浴だったらしい。ははは。因みに、混浴も女性が多い場合(特におばちゃん集団に遭遇した場合)、男はびびってひたすら萎縮してしまう事を体験上知っている。笑

ローマが滅亡すると、スイスの地に主にゲルマン系のアレマン族(ドイツ語圏)、西の一部にはゲルマン系ブルグンド族(フランス語圏)が入ってくる。この後スイスはゲルマン系諸族の支配する地となり、その版図は神聖ローマ帝国の一部となった。因みにイタリア語圏(主にティチーノ)はランゴバルト族、ロマンシュ語圏(グラウビュンデン)はケルト系のラエティア族が起源となっている。ラエティア族は一般的にケルト系の扱いだが、もともとの民族はイタリア中部の土着民族で非ケルト系。しかしケルト族に支配され同化されてしまっている。これがスイスの4つの公用語の起源。

タイムスリップをして13世紀末の1291年
この様な舟が(これより原始的なはずだが・・・)、あの崖の様な岸に向かう。そこは舟でしか辿り着けない隠された場所、「リュトリの丘」。

スイス建国の地、リュトリの丘
シュヴィーツ、ウーリ、ウンターヴァルデンの3つの地域の代表が、目立たぬようにこの丘に集まり、相互に助け合う永久の盟約を結んだ。これがスイスの建国となっている。
この防共盟約はそれ以前にも交わされていたらしいが、1291年に更新した際、永久に続く盟約として再確認されている。最近では保存されている盟約の文書がどうやら複製であったらしく、この史実が確実なものか検討が必要だとの指摘がされている。面白そうだ。

リュトリの丘から
建国の地は、地味なアルプ。スイスらしい。一応国旗がはためいている。しかもどこにでもある棒にだ。この丘にはレストランが一軒だけ。

リュトリの誓いの3人衆
物置小屋みたいなところが改装され、資料館が作られていた。剣を持ったヒゲを生やしたおっさんが3人描かれている。後世に作られたものなので、デフォルメされたものであることは確か。

レストランにスイス民兵
なんでここでスイス民兵がのほほんと食事をしているのか、不思議だった。平日の昼下がりだったし。
スイスは徴兵制のある国で、徴兵期間中は訓練を受ける事になっている。これも訓練の一環???

リュトリの丘から見えるブルンネンの町
リュトリの丘へは、このブルンネンの町から舟で渡るのが一番近い。観光の場合は、ルツェルンから「ウイリアム・テル号」なども出ているので、それを利用するといいだろう。同一の湖を囲む4つの州がどんな所なのか、またその美しさを満喫出来ると思う。

シュヴィーツ
スイスの建国に大きな役割を果たした州。ハプスブルグと一番大きく対立した州で、その州の中心が同名の町「シュヴィーツ」。ひいては、スイスという国号の語源ともなった。といっても、こんな規模の町。

モルガルテンの戦いの絵
スイス盟約軍が山側から攻め、ハプスブルグ軍をけちょんけちょんにしている、スイス人にとっては痛快な絵。当時の盟約軍の武器はハルバートと呼ばれるもので、槍に斧が組み合わさった様なものだった。重くて扱い辛い武器だが、農民の腕力はそれに勝っていた。斧の部分で馬上にいた騎士を打ち落とした。

モルガルテンの写真はここからどうぞ

アインジーテルン修道院(ハプスブルグ側)
今はシュヴィーツ州にあるが、領地係争でシュヴィーツと鋭く対立していた修道院。シュヴィーツの町とは山一つ隔てた向かいにある。何故対立したかというと、当時の自由農民は自分が開墾した農地を自己のものと出来る、開墾自由の特権を持っていた。一方皇帝は帝国内の領土権を有しており、シュヴィーツなどの地域を含む領土をアインジーデルンに寄贈していた。土地を巡る権利にダブリが生じたわけ。

アインジーデルンはハプスブルグ家の保護下にあって、アインジーデルンを利用してハプスブルグの影響力を強めようとしていた事もある。両者の対立が激化して、ついにシュヴィーツ側が修道院を襲撃、修道士を人質に取る事件が勃発した。アインジーデルンはこれを受けて、ハプスブルグに救助を依頼し、ハプスブルグ側がシュヴィーツ討伐に出陣することになった。これがモルガルテンの戦いの発端。裏読みすると、かねてから反ハプスブルグの姿勢を強めていたシュヴィーツを潰す口実の為に、まんまと盟約側が踊らされたとも言えそうだ。

昔のアインジーデルン修道院の絵
昔からすごい修道院だったみたい。ここをシュヴィーツ農民が襲ったのだから、見方によれば神をも恐れぬ野蛮な輩、との批判も成り立ちそうだ。しかし、当時の修道院の実態は貴族の次男三男がうまい汁を吸う場所でもあったので、両者とも世俗化していたことは確か。

黒いマリア様
アインジーデルン修道院で有名な黒いマリア像。黒い石で出来ているというのがユニークなんだそうだ。アフリカの教会であれば黒いマリア様もありかな、と思ったりするが、聖なるマリア様が黒というところに、どことなく違和感がある。

ゼンパッハの戦いの祈念碑
ルツェルンの郊外、ゼンパッハで繰り広げられたハプスブルグ対スイスの第2回戦。ここでスイス側は辛くも勝利を収める。ハプスブルグ側は、宗主たるレオポルド公が戦士するなど、極めて手痛い損害を被った。この戦いでスイス盟約側の独立がほぼ決定した。

ゼンパッハの戦場
ここは比較的広々とした丘陵地帯だった。ハプスブルグ側は、前回ハルバートによって騎士が打ち倒された反省から、騎士を馬から下ろして戦い、当初は優位に立っていたのだが、スイス盟約側の救援などがあって、最終的にはスイスの密集兵団戦法に破れた。

スイス兵の兵法は軽武装で四角く密集し、縦横無尽に動き回り、敵の弱い点から突き崩すというもので、当時の重装備の騎士ではその動きについてゆけず、完全に餌食となった。騎士による古き良き時代の戦いは終わりを告げていたのだが、その美しき騎士道精神があってか、ヨーロッパの貴族はなかなか騎士戦法から脱却しなかった。

そのため、騎士戦法には有効なスイス兵法は長い間強力なものとして、恐れられた。こうしてスイス傭兵がヨーロッパ中で活躍することになる。

飛び道具が主体となる戦争の時代を迎えると、流石にスイス兵法は廃れ、ナポレオンのロシア遠征で、1万人にも及ぶスイス傭兵がロシアの地で死んでしまった事などが重なり、19世紀に入ってスイス傭兵は禁止される事になった。

ゼンパッハの町
中世の面影を残すこじんまりとした町

ネーフェルスの戦い(グラールス州)の記念碑
ゼンパッハの戦いの勝利を受け、シュヴィーツ州の隣、グラールス州がハプスブルグへの臣従を拒否、ここにスイス盟約側とハプスブルグの第3回戦が勃発。

ネーフェルスの町
この様に山を背にしている。ハプスブルグ側がこの町に侵攻すると、待ってましたとばかりに山から石を落とし、隊列が乱れた所を山に潜んでいたスイス盟約軍がハプスブルグ軍に襲いかかった。これはモルガルテンの戦いの戦法に似ている。ハプスブルグは同じ罠にはまっている。勉強してないのか?ハプスブルグ、といった感じだ。

グランソンの戦い
当時フランスをも圧迫するブルゴーニュ公国は、北海から地中海をつなぐ大帝国を野望していた。これに危機感を覚えたフランス、アルザス、スイス、そしてハプスブルグまでが合同してブルゴーニュ包囲網を打った。グランソンの戦いはそうした背景の中で起きた、スイス盟約軍とブルゴーニュ軍との戦いの、第一回戦。ヌーシャテル湖湖畔の町グランソンの外れ、緩やかな丘陵地帯で戦いが行われた。
この戦いでは、最初の小競り合いの後、スイスの本隊が現れるとブルゴーニュ軍は恐怖から混乱に陥り、武器を投げ捨てて逃げ出してしまったという。強いスイス歩兵の名声が勝利をもたらした。この戦いによってブルゴーニュ軍が残した大砲を捕獲。こうしてスイス軍に大砲がもたらされた。

ムルテンの戦い
ブルゴーニュ軍との第二回戦。ブルゴーニュ軍は湖畔(ムルテン湖)の城塞都市ムルテンを包囲するに至ったが、ここでスイスと帝国諸都市の同盟軍によってまた敗れてしまう。戦いは町周辺のこの様なアルプで行われ、森が散在していた。スイス川はこの森をうまく活用して、相手を挟撃したという。
この戦いはブルゴーニュ側に1万名以上もの戦死者を出し、ひいてはブルゴーニュ側の内乱を誘発した。シャルル突進公は、この後ロートリンゲン(ロレーヌ)のナンシーの戦いにて戦死した。ナンシーの戦いにはスイス傭兵も参加しており、シャルル公は、スイスとの第3回戦でついにノックアウト、とも受け止められる。

ムルテンの町
小さいが中世の面影を色濃く残している町。町から見下ろす湖が美しく、対岸の丘にはブドウ畑が広がっている。町を散歩した後、湖畔のレストランで食事をするなどもいい。あるいはちょっと足を延ばして、ローマ遺跡の町、アヴァンシュに行くのもいい。

シュヴァーベン戦争の舞台
スイスの東端で、現在のザンクト・ガレン州に位置するボーデン湖湖畔で1499年、戦いが行われた。この主戦場となったブリゲンツ市周辺はオーストリア領となっている。
この戦いで勝利したスイスは、帝国から自治を認めてもらっているだけの立場から、徴税や裁判からも自由であるとの立場を得て、実質的な独立を達成した。

ジュネーブの開放
ジュネーブは神聖ローマ帝国領内にあって、ジュネーブ司教の領地であった。1387年より司教より自治を認められた。その司教にサヴォア家の者がつくなど、サヴォワ家がジュネーブ支配の手を伸ばしていた。スイスのフランス語圏は、この様に帝国領内にあっても、ハプスブルグではなく、サヴォアとの対立に直面していた。ジュネーブはスイス盟約同盟と連帯しながら、サヴォアの干渉を退けていたが、長い間単独に独立を保っていた(1584年スイスに加盟)。
サヴォアは1602年にジュネーブ市を取り囲むが、ジュネーブは辛くもこれを撃退し、これによってサヴォアからの干渉を完全に取り除いた。ジュネーブはこの戦いを記念する「エスカラード祭」を毎年12月に催している。

ハプスブルグ城
アールガウ州ハプスブルグ(そういう地名)にある、かつてのハプスブルグ家のお城。お城の下にブドウ畑があって、ハプスブルグワインが作られている。ハプスブルグワインなど、ハプスブルグ本家のオーストリアにもあるまい。笑

お城の旗は、今やスイス・・・
ハプスブルグはオーストリアに移った後に大発展を遂げているので、このお城はまだこぢんまりとしている。スイスを追われたハプスブルグの城にはスイスの国旗がはためいている。なお、スイスを追われたというのはスイス側の観点であって、ハプスブルグ側としては、スイスより有益な土地オーストリアが手に入ったので、そちらに本拠を移しただけ、なのかも。

ハプスブルグ城からの展望
鷹の巣城と呼ばれたくらいだから、その展望は素晴らしい。こうして自分の支配するアーレ川流域の土地を見下ろしていたのだろう。土地的には、山と湖ばかりのスイス原三州よりこちらの方が豊かな事は明々白々。

ハプスブルグ城の昼下がり
中庭にはテーブルが並べられ、景色を楽しみながらハプスブルグワインを飲む。これもまた格別。

ハプスブルグ城はレストラン
お城の中はレストランになっている。なお、2008年はハプスブルグ家900周年の年なんだそうだ。

ハプスブルグのワインがこれ
名前はドイツ語でHabsburger。ピノ・ノワールで作られている。果実味があって、軽快な赤ワイン。

これぞ、本家のハプスブルグ王宮(ホフブルグ)!
ウィーンにあります。当然ですね。あのささやかな鷹の巣城とは大違い。ハプスブルグはやはりすごい。

これが単なる夏の宮殿だと(シェーンブルン宮殿)
ハプスブルグを追い出したからと言って、いい気にはなっておれません。スイス。笑
何せ、これが夏の宮殿ですから。ベルサイユ宮殿の向こうを張っておりまする。そう、マリー・アントワネットも15歳までここでお育ち遊ばされたそうです。これが当たり前の世界じゃ、フランスのベルサイユに行っても当たり前の家に移ったくらいの感覚だったんでしょうなぁ・・・。

ウィーンっ子
今でもこんな格好で町を歩いているとか。笑

世界の武器を楽器に!
前回の写真での冗談はさておき、音楽の都ウィーンまで移った所でこのシリーズは終わります。

スイス独立の歴史は戦いの歴史でした。また中立を保ちながらも、その中立は傭兵という血の輸出の代償として得たものでした。あの自然に恵まれ、世界随一のアルプス景観を誇るスイスですが、歴史を紐解くと、そこには物言えぬ人々の幾多の血が流されています。景色は素晴らしいけれど、岩や氷河は食べ物を生みません。自然との闘いは貧しさとの闘いでもありました。

一方、ハプスブルグ家の本拠地ウィーンの町を見ますと、その栄耀栄華がこれでもかと、今に至っても華やかさを伝えております。音楽もそうでした。ウィーンが音楽の都たり得たのは、ハプスブルグの権勢があったからでしょう。

貧しきものには血を、富めるものには芸術を、とは酷い現実です。「世界の武器を楽器に」とは沖縄出身のアーティスト、喜納昌吉の提唱です。

富める国が貧しき国に武器を売っているのが、未だ世界の現状の様です。貧しき国にこそ平和を、音楽を!と私は祈ります。