紀行文

 6月7日、いよいよ帰宅する日になった。帰りがけ、ラインファルツを見ながらスイスに戻る方法と、ここは通過してその南部にあるフランスのアルザス地方を見て戻る方法があった。ラインファルツはドイツ一の広大なワイン産地なのだけれど、主流はテーブルワインで、ラインガウの様な華やかさはない。アルザスも実際のところ、若飲みワインが主流で、ラインファルツと大差を感じない所なのだが、アルザスは色々な意味で独特な所だし、フランスにも入って見たかったので、アルザスに寄ることに決めた。

 ヴォルムスからおよそ150キロ南下し、ドイツのカールスルーエというシュバルツバルド(黒い森)地方の玄関口を過ぎた所で、ライン川を渡りフランス領に入った。このルートはアルザスとドイツを結ぶ主要ルートなのだが、その国境には誰もいなかった。確かにゲートは存在するので国境だと認識出来るのだけれども、往来は完全に自由だった。これがEU圏内の国境というものなのだろう。

 国境を過ぎるとアルザスの第一都市、ストラスブールに入る。ストラスブールは欧州議会のある都市。歴史的にも見る所は沢山あるのだけれど、そういう観光をしていたら、アルザスを見るのに何日もかかってしまうので、・・・あれがかの有名なノートルダムね、という感じで流れる車窓だけの見物しかしなかった。

 この地方独特の家並みは大変美しい。まるでおとぎの国に入ったようだ。しかしどことなく、ドイツの古い家並みに似ている。というか、そのままという感じ。ドイツのハルツなど、文化の濃い場所を訪れ、何日も旅しながらフランスに入った私には、まだここがフランスであるという実感がわかなかった。ちなみにこのドイツやアルザスで見かける木骨造りの家は、こちらでコロンバージュと言われるそうだ。実はこのコロンバージュ、ベルンの我が家の真ん前にもある。文化は国家に縛られることなく多様な存在だ。

 日本人は、一つの国に一つの民族、一つの文化、と単純に考えやすい傾向にあると思う。でも、実際はそうじゃなくて、関東と関西で文化は違うし、日本の方言だって、標準語と全く異なるものもある。沖縄に至っては、他の独立国家だった。今の状況に至ったのは戦後、世界的な民族独立運動などのからみから、マスコミを上げて民族国家が喧伝され、日本は大和民族の単一国家みたいな意識が定着してしまったからだろう。

 しかし国境というのは時代によって変わっていくし、これの線引きは、民族や文化じゃなくて、政治的な縄張り争いで決められるものだ。本来、この縄張りで成立する国家というのは民族や文化に根ざした存在じゃない。それを端的に証明しているのがアルザスだろう。この地方は、ドイツとフランスの縄張り争いの種にされて、何度も国が変わった。

 にも関わらず、アルザスにはアルザスの文化があり、独自の方言があり、アルザスの精神を受け継ぐ人々が住んでいる。欧州議会がストラスブールに作られたのも、第一に多様な文化的、民族的背景を持つ諸地域の平和と安定を考えて、アルザスのあり方をモデルにしようとしたからだろう。世界中どこでも、こういう文化や精神が尊重される世の中であって欲しいものだ。アルザスに来て、つくづくそう思った。

 アルザスワインの産地は、北はストラスブールの西、モルスハイムから始まり、南はミュールーズの西、タンヌに至る。ライン川からおよそ20キロ程西に離れたボージュ山脈の東斜面に広がる、長さにしておよそ110キロの地帯だ。ドイツのラインワイン地域に比べると標高が高く、標高150メートルから400メートルくらいの所にブドウ畑が広がっている。

 アルザス地方はストラスブールのあるバー・ラン県とミュールーズのあるオー・ラン県の二つの県に横たわっている。セレスタという町がオー・ラン県とパー・ラン県の境界になっていて、セレスタより南がオー・ラン県となっている。高い評価を受けるワインは、どちらかというとオー・ラン県のコルマールという町周辺の区域に集まっており、コルマールがアルザスワインの中心の町となっている。 

 コルマールの北リボーヴィルから、コルマールの南ゲブヴィレールあたりまでが、アルザスワインの心臓部と言われている。コルマールもアルザス文化が色濃い、美しい家並みを持つ町だ。しかし、バー・ランでもバー、アンドロー、アイヒオッフェン、ベルグビーテンなどの地域は高い評価を得ている。

 ボージュ山脈はストラスブールより北方に延び、やがてドイツ国境を迎える。従って、ぶどう畑もストラスブールを越えて、国境まで伸びているのだけれど、この地域はテーブルワインの産地となっている。それに反してタンヌより南はユラ山脈にぶつかり、ブドウ畑は途切れる。
 私はストラスブールを出てまず南西にあるオベルネーという古い、小さな町を訪れた。まさにアルザス、という感じでコロンバージュの家々が町の中心の広場から伸びていた。ちょうど昼時で、沢山の人が道にまで張り出されたレストランのテーブルを囲んで食事とワインを楽しんでいた。

 そこから次にバーを目指した。アルザスのブドウ畑はどことなくブルゴーニュに似ている。永遠と続くブドウ畑の海、そしてその海に点々と存在する小さな村々、それはまるで大洋に浮かぶ島々のようだ。この広大なブドウの海から作られるワインの量とはいったいどれくらいなのだろう。そして、それが毎年飲み尽くされていくなんて、とても想像出来ないことだった。

 幹線道路は町と町をつなぐけれど、ブドウ畑の中は走らない。そこで、いつも一本山よりの道を選んで走った。セレスタも通らず、その西を迂回しブドウ畑を求めた。そしてセレスタの西、キンツハイムからいよいよアルザスワインの心臓部に向かった。リヴォーヴィル、続いてアルザスワイン一番の中心地リクヴィールを訪れた。

 リクヴィールは観光するにも素晴らしい町で、アルザスの古い家並みを良く残している。まるで中世の町を訪れた気分にさせてくれる。さらに、ヒューゲル、ドップ・ムーラン、ドップ・イリヨンなどの名だたるワインメーカーが軒を並べている。ワイン好きがアルザスで時間がなく、どこか一カ所でも、といった場合は間違いなくここを訪れるべきだろう。

 ここから南のキーンツハイム(キンツハイムではない)、その西のカイゼルベルグも閑静な家並みを残している渋い所だ。また、ここには素晴らしいリースリングワインを生み出すという畑、シュロスベルグがあることで知られている。そして戦争で町は破壊されてしまったけれど、ワイン作りが今も息づいているアメルシュヴィールも寄ってみたい所だろう。これらの町では、必ず素晴らしいワインに出会える。

 実はべンヴィールを過ぎた所で路肩に駐車しようとして車を止めたら、路肩が弱かったみたいで、ゴンという音と共に路肩が崩れ、片輪が側溝にはまってしまった。こうなると自分だけではどうしようもなく、レッカー車を呼ぶしかない。こちらには便利な保険があって、こういうときに無料で救出してくれる、カー・アシスト保険なるものがある。これはヨーロッパ全域をカバーしている。ヨーロッパなら、どの国でも電話一本で救出してくれるのだ。

 私はこれに加入していたので、早速電話して救助を頼んだ。アルザスとはいえ流石フランスである、人を待たせる。待つこと2時間、やっとレッカー車が来た。救出作業はほんの10分ほどだった。これも経験というか、保険代の元を取ったというか、複雑な気分だった。

 この余計な時間のおかげで、ゲブヴィレール、タンヌなどのアルザス南部のワイン名所を訪れる時間を失ってしまった。ウィンツェンハイムから東に向かってミュールーズに向かう高速道路に入り、これらの地域を遠くに見ながら、ミュールーズを過ぎ、ボージュ山脈とアルザスに別れを告げた。

 スイス国境ではきっちり警備員がいた。パスポートと滞在許可書を見せて、ベルンへの戻りだというと、関税に申告すべき、ワインやタバコなど持っていないかと聞いてきた。ワインは持っていたけど、1ケースにも満たない量だったので、ないと答え、すんなりスイスに入った。スイスからドイツに入るとき、2時間もかかった関税処理を思い出して、ほっとした。

 いよいよスイスに戻ってきた。バーゼルも見慣れた町だし、なんといっても、山また山の風景が懐かしい。そして、つーんと漂ってくる肥やしの臭い、久しぶりだ。忘れていた、肥やしの香り、これがスイスの臭いなのだ。

追加資料

 アルザスワインの等級には普通のアルザスAOCとアルザス・グラン・クリュAOC、そしてシャンパン製法の発泡酒クレマン・ダルザスAOCなどがその名を知られている。ドイツの影響が色濃く、今まではあまり生産地にこだわることなく、使用するブドウ品種名をラベルに表示してきた。この表示を許されたブドウ品種は5種類のみで、シルヴァネール、ピノ・グリ(トカイ・ダルザス)、ミュスカ、ゲヴュルツトラミネル、リースリングである。

 しかし、アルザスワインはドイツワインより辛口に仕上げる特徴があり、その分強い酸味も抑えるフランス的醸造法によっている。こういうフランス的影響もあるので、紆余曲折の末、ある一定の評価を得る畑から収穫されたワインにはグラン・クリュという名称を付けることが出来る様になった。

 現在、このグラン・クリュの資格を得た畑は50にのぼる。グラン・クリュを名乗るにはピノ・グリ、ミュスカ、ゲヴュルツトラミネル、リースリングの4品種の使用しか許されない。グラン・クリュ・ワインのラベルにはブドウ品種とブドウ畑の名前が併記されている。

 アルザスのグラン・クリュには賛否両論がある。というのも、この格付の時、醸造家への配慮が足りなかったとか、あまり評価されていなかった畑までも含まれてしまったとか、混乱があったせいで、醸造家の中にもグラン・クリュ否定派が存在している。

 個人的にはアルザスのリースリングとゲヴュルツトラミネルはフルーティかつフレッシュでお勧め。あるアルザスの醸造家の言では「リースリングとゲヴュルツトラミネルを比較することは、19世紀の小説に出てくる高尚な貴婦人と、その競争相手だった気のおけない遊女を比べるようなものだ。つまり、わかりやすくいえば、貴婦人の方は繊細かつ優雅で、とっつきにくいところがあり、本質的にはゲヴュルツトラミネルより奥が深い。ゲヴュルツトラミネルは微笑みを絶やさず、派手で少なくとも外見上は魅力的で華やかな娼婦なんだ。」とか。さて、どちらがお好みだろうか。

 アルザスワインの飲み頃は一般にフレッシュなもので2〜3年、評価の高いものでも3〜6年と言われている。

アルザスの主要な地区名
Molsheim モルスハイム
Strasbourg ストラスブール
Obernai オベルネー
Barr バー
Andlau アンドロー
Selestat セレスタ
Ribeauville リボーヴィル
Riquewihr リクヴィール
Kientzheim キーンツハイム
Kaysersberg カイゼルベルグ
Ammerschwihr アメルシュヴィール
Bennwihr ベンヴィール
Colmar コルマール
Wintzenheim ウィンツェンハイム
Guebwiller ゲブヴィレール
Thann タンヌ
Mulhouse ミュールーズ

アルザスの評価の高いワイナリー
(Bergheim ベルグハイム)
Domaine ~Marcel Deiss ドメーヌ・マルセル・ダイス
(Kaysersberg カイゼルベルグ)
Domaine Weinbach Colette Faller et ses Filles ドメーヌ・ヴァインバック・コレット・ファレ・エ・セ・フィーユ
(Turckheim テュルクハイム)
Domaine Zind Humbrecht ドメーヌ・ズィント・ウンプレヒト
(Riquewihr リクヴィール)
Hugel et Fils ヒューゲル・エ・フィス
Dopff au Moulin ドップ・オ・ムーラン
Dopff et Irion ドップ・エ・イリオン