紀行文

8月2日(木)
 朝オランジュの町を散歩する。ここにはローマ時代に作られた古代劇場があって、ほぼ完全な状態で保存されている。残念ながら開場が午前10時からだったので、中に入れなかった。シーザーの戦勝を記念した凱旋門もかなりいい状態で保存されている。町中のカフェは朝早くから開いていて、市庁舎前の通りには朝市が立っていた。カフェでは朝からロゼワインを飲んでいるおじさんがちらほら。流石プロヴァンスだ。

 オランジュの町を出て、シャトー・ヌフ・デュ・パープに向かう。シャトー・ヌフ・デュ・パープとは教皇の新しい城という意味。ここにアヴィニョンに住んだ教皇の夏の別荘があったのだ。シャトー・ヌフ・デュ・パープのワインは力強い。中には10年以上熟成するものもある。しかし広大なこのワイン地区では、残念ながらその名に相応しからざるものもある。

 今回パープで訪問したのは、クロ・デ・パープ(Clos des Papes)。何十年もパープのトップを走る名門のドメーヌだ。ここにアポなしで突入する。無謀といえば無謀だが、私の場合、これ専門。何せ到着時間が読めないし、アポで時間を拘束されると回れるところも回れなくなる。玄関のベルを押す。暫く返事がない。と、女性が応対してくれた。訪問したいと申し出ると、訪問は受け付けていないが試飲は出来るという。じゃぁ、試飲すると言うことになり、色々と試飲させてもらった。

 圧巻はビンテージのクロ・デ・パープ2000。抜栓後すぐの試飲となったので、びんびんに硬い。しかし、このワインの持つ力強さには圧倒される。最良の状態に持って行くにはあと5年は必要かと感じた。試飲させてもらったお礼も込めてクロ・デ・パープ2000を一本買った。お値段46ユーロ。日本円で7300円。このワイン2004年には4000円程度で売られていたはずなのに、どうもプレミアムがついちゃったみたい。買ったはいいけど、あと5年寝かさなきゃ。

 町の丘の上の教皇の城跡に行ってみた。城跡は壁が残っている程度で見るも無惨。しかし眺めがすごくいい。この日の午前中は天気が良くなく、雷が鳴っていた。遠くに稲妻が見えた。これも壮観だった。その後、シャトー・ヌフ・デュ・パープの東端、レ・ヴュー・テレグラフに向かった。昔はここら辺で狼煙を上げたらしく、その名が付けられている。その跡は残っていないが、このブドウ畑はシャトー・ヌフ・デュ・パープの一級品を産出している。

 現在非常に評価の高いシャトー・ヌフ・デュ・パープのドメーヌは古くからの名門シャトー・ド・ボーカステルを筆頭に以下の通り。
・シャトー・ド・ボーカステル Chateau de Beaucastel
・クロ・デ・パープ Clos des Papes
・ドメーヌ・ド・ラ・ジャナス Domaine de la Janasse
・シャトー・ラ・ネルト Chateau la Nerthe
・シャトー・ラヤス Chaeteau Rayas
・レゼルヴ・デ・セレスタン Reserve des Celestins
・ドメーヌ・デュ・ヴュー・テレグラフ
 Domaine du Vieux Telegraphe
・シャトー・フォルティア Chateau Fortia

  シャトー・フォルティアはAOCの生みの親、故ル・ロワ・ポワソマリエ男爵のドメーヌ。氏は、フランスにおける原産地呼称を規制する法律の制定に尽力し、シャトー・ヌフ・デュ・パープを最初の地区にした。これが全フランスに広まり、そして全世界に広がった。

 余談だが、男爵は潜水探検家ジャック・クストーが海底から引き上げた2000年以上も前の古代ワインを飲んだことがあるんだそうだ。もう全てが分解され、ただの水と化していたらしい。氏はこれを「あまり良くないブルゴーニュのネゴシアンもの」と評価したとか。なんとなく想像出来そうな気が・・・。笑

 レ・ヴュー・テレグラフのブドウ畑は典型的なパープの畑で、パープ独特の赤茶けた丸石が敷き詰められていた。あぜ道を車で走らせると、この丸石がタイヤで跳ね上げられ、ばこばこ車体に当たる。きっと車の下はぼこぼこになってしまったに違いない。冷や汗がでた。やっとの事で普通の道に戻り、次の訪問地、アヴィニョンに向かった。

 ローヌ川下流域に佇む歴史的な町アヴィニョン。かつてフランス王の干渉でフランス人教皇が生まれ、ここに法王庁が置かれた。アヴィニョンはカトリックの中心地として繁栄したそうだ。しかし歴史的にはこれを「法王のバビロン捕囚」という。ローマカトリックとしては屈辱だったみたいだ。

 アヴィニョンの法王庁宮殿は流石に大きく、教会の権威を象徴しているようだが、バチカンのサン・ピエトロ寺院には遠く及ばないといった感じ。しかし、町は城壁で囲まれ、中世の落ち着いた雰囲気に満ちている。宮殿の中にブドウ畑があった。ということはワインを作っているということなのだが、法王庁宮殿ワインの調査は見逃した。因みにアヴィニョンの町自体はコート・デュ・ローヌのAOC区域に入っていない。

 アヴィニョンから車で20分も走ると、タヴェルに着く。ここはフランス一のロゼワインを産するところ。村の入り口に「おらが村のロゼワインはフランス一ずらぁ」と書いてある。フランス人が「ずらぁ」という訳ないけど、そんな感じ。正確には「Tavel Premier Rose de France」。

 「フランス一ずらぁ」と言うだけあってなかなか力のあるロゼワインを作る。村の表通りにお店があったパレー・ミニョン(Palai mignon)でロゼワインを試飲したけれど、色合いも明るいルビーに近く、口に含むとタンニンをしっかりと感じる。あと3年熟成させた方がいけそうなワインだった。

 ここでタヴェルの隣村、リラックの赤も試飲した。しっかりとした骨格に十分なタンニン。ローヌの重い赤の見本のようなワインだった。リラックはちょうどローヌ川を挟んでシャトー・ヌフ・デュ・パープの対岸にある。見逃せないクリュだ。
リラック2005,パレー・ミニョン
気に入って一本購入した。ただし、飲むのは少なくともあと3年後。最低でも5〜6年の熟成が必要とみた。

 タヴェルのレストラン・バーでサンドイッチとタヴェル・ロゼの昼食を済ませ、ニームに向かう。途中にポン・デュ・ガールという、古代ローマ人が2000年前に作った巨大な水道橋を見る。その見事さには感嘆。彼らは建築の天才だと思った。

 ニーム、フランス最古のローマ都市。ローマのコロセウムを彷彿させる古代闘技場やギリシャのパルテノン神殿を彷彿させる神殿、メゾン・カレがある。メゾン・カレ、直訳すると「四角い家」、神殿の割には安直な名の様な気がする。保存状態はとっても良く、まるでローマ時代や、ギリシャ時代に戻った様な気にさせてくれる。町中は中世の建物が良く保存されており、これまた中世に戻った気になるから、町中を歩くだけで歴史旅行をした気分だ。

 ジーンズのデニム生地。ニームは織物でも名高く、丈夫な生地で有名だった。この製法がアメリカに渡り、デニム(デ・ニーム)が生まれたそうだ。フランス最古のローマ都市は、アメリカのジーンズと縁がある。旧大陸と新大陸の奇妙な接点だ。

 ここから西に向かうと、いよいよラングドックに入る。目指すはフォジエール。ニームから高速に乗り約80キロ、ベジエという町からちょっと山中に入った、ラングドックの地域の中央に位置するクリュ。ここと西隣のサン・シニャンには評価の高いドメーヌが多い。

 ところがだ・・・、ニームで渋滞に捕まり車は前に進まない。夏の行楽シーズン、しかもプロヴァンスの有名な観光名所ときたもんだからもう最悪だ。結局ここを抜け出すのに時間がかかり、フォジエール行きを断念してしまった。悔やまれる。

 ブドウ栽培学の世界的な中心地モンペリエまで来て、甘口ワインで知られるフロンティニャンに向かう。これがミディのブドウ畑へのファースト・コンタクトだった。因みにモンペリエ市内は素通りした。ブドウ栽培学の中心地モンペリエ大学を見ても、ちょっと仕方ない気がした。

 フロンティニャンはミュスカ、日本名で言えばマスカットぶどうを使った甘口ワインで知られるところ。このミュスカという名前はアラビアの港からついたそうで、十字軍の時代にもたらされたとされている。シラーもペルシャ由来だし、ぶどうは文明の発祥の地を伝いながら、チグリス・ユーフラテスからアラブ、ギリシャ、ローマ、そしてヨーロッパと渡って来た。ワインはユーラシアを背景とした人類の歴史、文明と共にある。

 モンペリエからエグ・モルトという中世の要塞都市周辺には砂の土壌の上に広大なブドウ畑が広がっており、そこで産するワインはヴァン・ド・サーブルと言われている。訳すると「砂の酒」。砂と言うよりは水の味がする。砂だけあって、ミネラルが足らないのかも。このヴァン・ド・サーブルを産するドメーヌで有名なのがドメーヌ・リステル。同社のリステル・グリというワインは世界中に輸出されている。エグ・モルト周辺でもリステルの看板は結構目につく。

 このドメーヌ、1900ヘクタールものブドウ畑を所有しており、単一ドメーヌとしてフランス最大はおろか、ヨーロッパ最大。多くは気軽に飲むワインだが、一部にはグルメ向きの商品がある。砂質の土壌の恩恵で、フィロキセラの被害を受けない。よってアメリカ種の接ぎ木を受けないブドウが栽培されている。モンペリエ大学とも提携していて、栽培や醸造設備は最先端を行っているという。

 エグ・モルトは中世の面影を残す、なかなか雰囲気のいい町で、城壁に囲まれている。ここから十字軍が派遣されて行ったらしい。エグ・モルトの目抜き通りにある小さな食品店で、ワインが売られていたのでついつい入ると、なんとワインの量り売りがされていた。名前はヴァン・ド・ターブル・フランセーとしかない。しかし、当然ミディであって、エグ・モルト周辺のヴァン・ド・サーブルだ。

 1リットルの値段が1.4ユーロ。日本円にして220円程度。ビールより安いなんてもんじゃない。ものは試しに、ロゼを1.5リットル買った。何故1.5リットルかというと、お店においてある空きボトルが1.5リットル入りしかなかったから。お味の方は・・・フルーティな香りの気軽に飲むタイプといった感じ。1リットル220円だったら、朝から気軽に飲めるわね。

 このお店では、この他にミディのものとローヌのドメーヌものが置いていった。うれしいのが一番高くても6ユーロ弱。で、ものは試しに一番高いドメーヌものを買ってみた。アペラシオンはコスティエール・ド・ニームだった。そこそこの力を持った赤だった。1000円以下のワインと考えると、結構お値打ちものという感じだ。

 エグ・モルトで泊まるか、ちょっと足を伸ばしてサント・マリー・ド・ラ・メールで泊まるか考えたのだが、今日のうちに地中海が見たかったので、サント・マリーまで行くことにした。エグ・モルトからサント・マリーまでは、カマルグ湿原を突っ走る事になる。流石に湿原地帯、真っ平ら。一般道なのだが、みんな時速100キロ以上でかっ飛んでいる。

 サント・マリー・ド・ラ・メールに着いた時には8時半を回っていた。それから宿探しとなった訳だけど、どこも満杯。これは野宿か?と危ぶまれた。だいたい、いつも宿泊地に着くのが8時を回るので、とうの昔にツーリスト・オフィスは閉まっている。よって、町中をうろうろしながらホテルを探し出すしかない。サント・マリーでは町中のホテルで空室が見つからなかった。

 やはり考えが甘いというか、観光シーズンで、しかもヨーロッパ中からバカンスに訪れるプロヴァンスの観光名所で、予約なしで、当日の夜に行き当たりばったりの宿探し、泊まれる方が奇跡だろう。

 宿探しはおいといて、はるばるスイスからついに到着した地中海。久々の海。感動した。海は夕日に赤く染まって美しかった。サント・マリーは、この地に3人のマリアが追われて流れ着いた所なので、その名がついている。キリスト教の聖地でもある。因みに3人のマリアとは、聖母の妹のマリア、ヤコブとヨハネの母マリア、マグダラのマリアだそうだ。
 
聖母もマリアだったよね、確か。聖母の妹もマリア?信じられん、姉妹に同じ名前をつけるなんて、どんな親だ!一説によれば、キリストとマグダラのマリアは特別な関係だったという。キリストの周りはマリアだらけだ。

 町中での宿探しは諦めて、アルルに向かうことにした。その途中に宿もあるだろうという算段。これは的中。町を出るとすぐにホテルが建ち並んでいた。何となく、日本のラブホテルの乗りだけど、こちらはみんなれっきとしたホテル。町に近いところは一杯だったが、ついに空室を見つける。ただ問題が、三つ星ホテルだったということ。今回の旅行では安宿を取るのが原則。三つ星はちょっと高い。案の定、二人で125ユーロとか言って来た。それは無理で去ろうとした所、110ユーロにまけるという。それでも高い。で、考えた末、100ユーロだったら泊まると交渉したら、見事成立。本日は予定外の三つ星ホテル宿泊となった。

 流石三つ星ホテル。部屋は2階構造で、しかもベランダ付き。ベランダからはカマルグ湿原が眺望出来る。エアコン付き。バスタブには入浴剤まで置いてあった。おかげで、ベランダでミディのワインを飲みながら夕食を取り、入浴剤を入れて風呂に入って、すっかりくつろぐことが出来た。

 今日回ったラングドックの地域は、フランスワイン揺籃の地。ガリアにローマ人が来る前のその昔、ギリシャや小アジアからフェニキア人の商人達がやってきて、今のマルセイユを拠点として商売を始めた。彼らがぶどうをもたらし、栽培した。時は紀元前6世紀。ただ、ブドウ自体はギリシャから持ってきたのか、既にいたケルト人が持っていたのかは定かではない。

 その後1世紀の間に、ぶどうはナルボンヌの西までもたらされた。すなわち紀元前5世紀頃には、ミディのワイン地区が成立していた事になる。その後紀元前2世紀まで、このミディのワインはベジエ(Beziers)と呼ばれた。ベジエはナルボンヌの北東に位置する町で、この町で輸送に使う木樽をまかなったからそう呼ばれたとの事。ベジエはローマでは名酒の代名詞だったのだそうだ。

 北方のケルト族の侵攻を恐れ、フェニキア商人はローマに庇護を求め、紀元前123年にローマ軍が到着。マルセイユ・ニーム・アルル、ナルボンヌなどの町がローマの重要な軍事・商業上の基地になっていった。こうして、ミディはギリシャ・ローマ文化の影響を強く受け、今もその文化遺産を残す、歴史的に大変興味深い地域になったのだ。

 ぶどうはミディに止まらず、ローヌ川を遡って、コート・デュ・ローヌを形成した。リヨンからはソーヌ川を遡り、ブルゴーニュへと伝わり、ヨーロッパのワイン文化の礎を築いた。ローマ人のヨーロッパワイン拡大に果たした役割は絶大で、一時期は北欧のデンマークまでブドウ畑が伸びた。

 ラングドックとは「ドック語」という意味で、フランス南部の方言の総称なのだとの事。ドック語を話す地域が、すなわちラングドックという訳。因みに、フランス北部の方言は、ラングードイルというのだそうだ。でも、フランス北部にラングドイルという地域はない。

 現在この様な歴史的な遺産に恵まれながら、残念にもミディというと安ワインの代名詞となっていて、未だそれがぬぐえないでいる現実もある。これは20世紀に入って、ブドウ栽培の大規模プランテーションがこの地域に導入された事に因っている。当時は、誰でも気軽に飲めるワインの供給が重要課題で、最先端の技術を導入し、ミディがそれに応えたのだ。

 まるで日本が戦後、大蔵省国税局の指導の基、三増酒なる廉価な日本酒を量産したのと重なる。これはこれで、戦後国民に気軽な日本酒を提供するという大事な役割があったけれど、生活の向上と共にその本来から離れたな味によって、日本酒離れが進んだ。こうして日本酒は大きな方向転換を迫られた訳だけど、おかげで日本酒の質は向上し、日本酒ブームなども生み出している。

 ミディを訪れると、その広大なブドウ畑を目にすることになる。それは平らな土地に永遠と続くブドウ畑なのだ。良いブドウ畑は、大抵丘陵地帯や傾斜地にある。その典型がブルゴーニュで、ブルゴーニュの特級畑は皆、丘の斜面の中腹当たりに位置している。ところが、ミディは大規模プランテーションに適さない傾斜地のぶどう畑を放棄してまで、平らな土地での栽培に力を入れてしまった。それに加えて、高貴葡萄品種の比率を低め、量産品種の比率を高めた。

 当にマスプロラインの誕生だ。これはこれで、当時は良かった。いや社会的なニーズがあったのだ。ところが時代が変わり、人々の生活が向上し、マスプロワインの役割は終わりを告げてしまった。でも、一度作った生産基盤はなかなか変えることが難しい。広大なブドウ畑を一夜にして傾斜地に移し替える事など不可能だ。マーケットも一定量の廉価なワインを必要としている。こうした現状の中、ミディはもがいているようだ。