ロワールワイン巡り紀行文

 

 

7月13日(日)

 

早朝ベルンを出発。今日は長いドライブになる。何せ中欧のスイスからフランス西端のナントまで車を走らせる予定。ナントはロワール川河口の町で、大西洋まであと一息という所に位置している。天気は雨。スイスの天気は向こう数日良くないという予報。しかし、ロワール地方の天気は向こう数日好天との予報で、太陽を求めて西に走る旅となった。実際旅行中の天候は良かった。これはラッキーだった。

ジュネーブを過ぎフランスに入り、ジュラ山脈を越え、ブレス平原を横切り、ブルゴーニュ南部マコンについた辺りで雨があがった。ここで高速を降り国道を西に走る。国道も良く整備されていて高速並のスピードで走れる。途中、ロワール川を横切り、いよいよロワール川流域に入った。

ロワール川流域に入ると延々と穀倉地帯が続いた。どこまでもどこまでも小麦畑が続く景観はとても壮大だった。昔アメリカ中西部をドライブした時の事が思い出された。フランスがヨーロッパきっての農業国である一面を実感した

ブールジュにつく。ここもロワールの古い町。ロワール川流域南東部ベリー地方の中心地だ。また、シャルル7世がイギリスに圧迫されて、パリを逃れここを本拠として活動をした所でもある。

ロワール地方は、このフランス王朝の歴史と密接に絡み合っているので、フランス王朝の歴史をひもとく必要がある。これを知っていると、ロワールの旅が一段と味わい深いものとなる。

ここで、世界遺産になっているサンテティエンヌ大聖堂や旧市街を見て、再び車中の人となった。ブールジュは中世の木組みの家が残る美しい町だった。ブールジュを見ている時にひとしきり激しい雨に遭った。しかしその後、天気が回復し青空が広がった。天気予報は見事に的中した。

ナントまでひたすら走る。一部国道も走ったが、基本的に高速を使ったため、高速料金も高くついた。フランスの高速はスイスと違い有料だ(正確にはスイスも有料だが、年間40フランで乗り放題)。高速料だけで50ユーロ、約8千円程かかったと記憶している。何せ700キロ程度高速で走っている。それでも日本の高速料金に比べたら安いかも知れない。700キロと言ったら、東京から青森くらいだろうか。

ナント到着した時に今日の走行距離が1000キロを超えていた。1日1000キロ以上走ったのは、アメリカ以来だ。ナントは今はロワール川流域圏に入るが、その昔はブルターニュ公国の首都だった。ブルターニュという英国的な響きは、中世イギリスのフランス占領と関係があるかと思ったら、実はそうではなく、イギリスに住んでいたケルト人がアングロ・サクソン人に圧迫されて海を越えてこの地に逃れ、国を建設したからだそうだ。このケルト人がイギリス(ブリテン島)からやって来たのでブルターニュと呼ばれるようになった。ブルターニュ地方はそういう経緯があって、今もケルトの文化が色濃く残る地域として知られている。

ナント市内を見学し、本日はナント市内にあるキャンプ場でテントキャンプした。実はヨーロッパでのキャンプはこれが初めて。12ユーロ程の料金を取られたが、シャワーもあるし設備は良かった。夜とても冷え込んで、寒かった。

以下予備知識として調べたフランス王朝の歴史。これを知っておくとロワール旅行も一段と深みが増す。

 

ざっと調べたフランス王朝の歴史

 

まず、ロワールに関わる歴代の王様

シャルル7世(勝利王、1422-1461
      イギリスに圧迫されブールジュに本拠を置く)

ルイ11世(1461-1483年 トゥールに首都をおいている)

シャルル8世(温厚王、1483- 498年)

ルイ12世(1498-1515年)

フランソワ1世(1515-1547年 シャンポール城)

アンリ2世(1547-1559年 シュノンソー城)

フランソワ2世(1559-1560年 シュノンソー城)

シャルル9世(1560-1574年 シュノンソー城)

アンリ3世(1574-1589年 シュノンソー城)

アンリ4世(1589-1610年 ナントの勅令を出す)

 

フランス王朝概観

5世紀以前はケルト人が住む、ガリアの地であった。ガリアはシーザーのガリア戦争によって全域がローマの属州とされていた。ローマ帝国が東西に分裂して弱体化が進み、ゲルマン民族の大移動に端を発して西ローマ帝国が崩壊すると、ここにユトランド半島の左下あたりを拠点とするゲルマン系のフランク人が勢力を伸ばした。やがて西ヨーロッパ、中部ヨーロッパを支配下に収め、5世紀末にクローヴィスがフランク人を統一してメルヴィング朝を開いた。彼はランスでカトリックの洗礼を受けた事から、後のフランス王朝ではランスで即位戴冠することが正式とされる。

その後、8世紀にメロヴィング朝の宰相として実質的な支配権を握っていたカロリング家がメロヴィング家を凌ぎ、フランク国王となりカロリング朝が成立する。このカロリング朝のカール大帝の時、フランク王国は最盛期を迎え、東欧から西欧一帯をその版図とした。カール大帝は800年にローマ法王より西ローマ帝国皇帝の称号を与えられた。

当時のゲルマン諸族の慣習として、遺産は子供に分割相続されることになっていた。そのため、ルイ1世(ルートヴィヒ)の死後、843年に3人の子供たちによってフランク王国は東、中、西に3分割されることとなった。この3分割が、ドイツ、イタリア、フランスの原形となった。今のフランスは西フランク王国がその原形。

因みに、ヨーロッパの王様の名前はみんな同じ様な名前を名乗っている。ルイはドイツでルートヴィヒとなる。シャルルは、ドイツでカール、イギリスでチャールズ。アンリはドイツでハインリヒ、イギリスでヘンリーなどなど。

西フランク王国のカロリング朝は987年に途絶える。そして台頭したのがユーグ・カペーを祖とするカペー朝だった。このカペー朝からフランス王国という名称になる。カペー家は以前にも西フランク王国で国王を出していて、カロリング家に次ぐ勢力であったが、カロリング家の血統が途絶えた事でカペー朝が不動のものとなった。当時国王は諸侯の選挙で決められるという慣習があった。王朝の勢力が強い場合は、その家系に国王が受け継がれるが、それが衰退すると、諸侯による選挙で国王が決められるというものだった。ある意味、同じ部族で血で血を洗う抗争を防げる制度といえる。そのためか、フランスにおいて王朝の移行は大きな戦争を伴うものとはなっていない。百年戦争におけるイギリスとの争いも、確かに王朝の移行期にあったが、カペー朝とヴァロア朝の抗争ではなかった。

カペー朝は国王が在位中に次の国王を嫡男から決めるという法律(サリカ法)を作り、これによってヨーロッパでは他に例を見ない程の長期の王朝を築き上げた。フランス王国の歴代の王は、フランス最後の国王ルイ・フィルップ(1830−1848)に至るまで、ユーグ・カペーの子孫である。

ただし、カペー朝の直系は1328年シャルル4世で途絶える。その後は傍系のヴァロア家から国王が出され、ヴァロア朝と呼ばれる。ヴァロア朝も1589年アンリ3世で途絶え、同じく傍系のブルボン家から国王が選出される。

ブルボン朝の末期には市民革命が起き、ルイ16世が1792年に処刑される。ここで一時王朝が消滅する。フランスは共和制となるが、過激な革命政府だったため、ナポレオンが台頭して帝政を敷くことになる。ナポレオンがロシア遠征に失敗し、失脚すると、周辺諸国の干渉から王政復古となり、再びブルボン朝から国王が選ばれた。絶対王政を望んでいた国王は、しかし次第に強まっていた国民の力に抗えず退位させられ、最後にオルレアン朝(これも傍系)ルイ・フィルップが即位した。このルイ・フィルップが最後の国王となった。カペー王朝の期間861年、37代の王が即位した。

 

フランス王国の王朝早見表

名称

始まり

終わり

期間(年)

王の世代数

カペー朝

987

1328

341

15

ヴァロア朝

1328

1589

261

13

ブルボン朝

1589

1830

241

8

オルレアン朝

1830

1848

18

1

 

 

合計

861

 

 

 

 

 

 

第一共和制

1792

1804

12

 

第一帝政

1804

1814

10

 

 

フランス王朝とロワールの関わり

カペー家はカロリング朝の諸侯であったが、その版図はパリを中心とする今のイル・ド・フランス地方とオルレアンだった。古くよりパリはフランク王国の中心的存在だった。カロリング朝が途絶えた後、ユーグ・カペーが国王に選出されてからパリはカペー朝の首都として発展していく。この様な由緒正しい首都があるにもかかわらず、15世紀から16世紀にかけてフランス王がロワールに滞在することになったのは、100年戦争の影響による。

この戦争はカペー朝からヴァロア朝への跡目相続に、カペー朝本流の王女を母に持つイギリス王エドワード3世がちょっかいを出したことに端を発するので、単にイギリスとフランスの領土紛争というものではない性質を持つ。親戚どうして遺産相続争いをしているのに近い。ということは、この戦争に苦戦していたフランスが、本当にフランスの危機であったのか、ということについて個人的に若干の疑念を抱く。しかも同じカペー系のブルゴーニュ公はイギリスを支援していた。

そして、その親戚のイギリス王がパリを陥落させてしまい、対立していたシャルル7世はブールジュに移らざるを得なくなった。ついにイギリス軍がオルレアンを包囲し、シャルル7世はいよいよ窮地に陥った。勝敗は決したかに見えた。

ところが、神の啓示を受けたというロレーヌ生まれの農家の娘、ジャンヌ・ダルクが突如出現してシャルル7世と会見、一軍を率いてオルレアンに乗り込み見事解放するという一発大逆転劇を演出した。この奇跡的形勢逆転劇の後、勢いを得たシャルル7世はランスでの戴冠に成功し、フランス王となった。しかし彼の世代にはパリを取り戻す事は出来なかった。

この様な情勢下でシャルル7世以降、フランス王がロワール地方をうろうろすることになる。アンリ2世の死後は妻であった、イタリア・メディチ家出身のカトリーヌ・ド・メディチが嫡男を次々に王位につけ、摂政としてシュノンソー城から権勢を振るった。彼女の子供たちに跡継ぎが生まれず、ここでヴァロア朝が途絶えた。よそから来た嫁が大きな顔をしていたのがフランス人の癪に触ったらしく、カトリーヌさんの評判はフランスですこぶる悪い・・・。

王室はブルボン家に移り、再びパリがフランスの都となっていく。しかし、ルイ14世はパリが気に入らなかった様で、近郊のベルサイユに王宮を作った。この時がフランス王朝の絶頂期で、華々しいベルサイユの王宮物語が生まれた。ベルサイユは栄華の頂点だったが、ベルサイユ故に王国の財政は傾き、その後盛者必衰の理の如く、ルイ16世とハプスブルグ家出身の浪費癖で名高いマリー・アントワネットが断頭台の露と消える。これで実質的にカペー朝は歴史の表舞台から去って行くことになる。諸行無常の響き有り。傾国の美女マリー・アントワネット、中国の楊貴妃と洋の東西を分けて名高い。

ジャンヌダルク異説

単なるロレーヌ地方の農家の娘だったジャンヌ・ダルクは神の啓示を受けて、フランスを救うべく故郷を発つ。ロワール谷のシノン城で1429年シャルル7世と歴史的会見を行って、その後一軍を率いてオルレアンに向かう。当時ジャンヌダルク17歳、というのが現在の通説。

この会見の時、シャルル7世は臣下に扮して身代わりを立てていたのだが、ジャンヌは偽の王に目も向けず、変装したシャルル7世の前に迷わず歩み寄り跪いたそうだ。これに驚いた王は、その後ジャンヌと二人で密談をし、シャルル7世が国王となるに相応しい証明をジャンヌが言ったとされている。これを信じた王は、ジャンヌに一軍を率いらせることを決める。

なんとも神懸かった話しで、この様な神懸かりを信じない人々は、色々とジャンヌダルクについて異説を唱えている。その中でもっともらしいのが、ジャンヌは王族の隠し子だった、ということ。そのため、王族の事には熟知しており、本物のシャルル7世をすぐに見分け、シャルル7世との密談で、シャルル7世に一軍を提供せしめるにまで至ったのだろうとしている。そうでなければ、いくら神懸かったとはいえ、農家の娘に一軍を与えるわけがない。

彼女は軽い癇癪持ちだったらしい。医学的に、こういう性質の人間は幻覚を見やすいのだそうだ。それが神の啓示を見る素地になったのではないかと分析されている。

シャルル7世はフランス王に即位してから、懐柔政策に転換し、あくまでも武力でパリを奪還すべしとのジャンヌを疎ましく感じていた。結局彼女がパリ攻略に失敗し、捕らえられると身代金も出さずジャンヌを見殺しにする。

捕らえられてから異端として火刑に処せられるまでの1年間、彼女は教会から厳しく尋問された。しかし、シャルル7世との密談については決して口を割らなかった。ここら辺に、隠し子説がわき出る素地が生まれる。シャルル7世にしても、あまり彼女が活躍すると、その後王族の家系であることがわかれば疎ましい存在にもなる。ジャンヌとしては敵方に王族の秘密を暴露してしまうことになり、再びフランスを窮地に陥れかねない。(実はシャルル7世は先王の子ではないと囁かれていた)

こうして彼女は敵方の手で異端として処刑されてしまう。しかしシャルル7世も後ろめたさがあったのだろう、後に彼女の名誉回復を行っている。その後宗教戦争などもあったが、フランスはカトリックの牙城となり、そのフランスを救った彼女は教会からも名誉を回復され、ついには聖人に列せられるまでに至った。因みに、彼女に相当痛めつけられたイギリスは、今でも魔女扱いだとか。苦笑

彼女自身がどこまで神聖だったのか、私には見当もつかないが、神懸かっていたのは確かなようだ。しかし、彼女を火刑に処し、そして聖人に祭り上げた教会は、その意図に神聖さのかけらも感じられない。火刑に処した時、熱と煙で彼女が窒息死し、服が焼け落ちたあと、一端火を遠ざけて、彼女の裸体と性器を公衆の面前に晒すなどの仕打ちをした。彼女が単なるか弱い娘であることを衆人に知らしめる為だった。

敵方にとってジャンヌは魔女の様に恐れられていた。その様な者を殺したらきっと復讐されるに違いないなどの恐れを民衆が抱いていたという。

 

7月14日(月)

 

朝6時に起き、7時に出発。キャンプ場の入り口にはゲートがあって、ここが朝7時にならないと開かないので、それ以上早く出発することは出来なかった。もっとも、夜が明けるのが6時頃なので、こちらでは午前7時はかなり早朝なのかも知れない。(農民国家のスイスで7時は、もう出勤のお時間だ)

まずはローヌ河口に向かう。ナントから約50キロ西。早朝のローヌ河口は清々しかった。流石にフランス一長いローヌ川、河口も広々している。その河口にでかい橋がかかっていて、横浜のベイブリッジを思い出した。その後ナントに戻る途中、ミュスカデワインの地区を走ってみるも大したブドウ畑を見ることが出来なかった。

ブドウ畑が現れたのはナントを過ぎて東に走ってからすぐだった。そこはミュスカデ・セブル・エ・メーヌ地域になる。とても広々としたブドウ畑だった。

かねてより目をつけていたワイナリー、ドメーヌ・ド・レキュに寄る。ここで言われたのが、「今日は革命記念日でどこもお休みだよ、僕がいてよかったね。」知らなかった。確かにそうで、その後訪れたワイナリーはどこも閉まっていた。とういか、お店もお昼過ぎからどこもかしこも閉まっていた。午前中に買い出しを済ませておいたのはドメーヌ・ド・レキュで試飲させてもらった事に次いでラッキーだった。ドメーヌ・ド・レキュのオーナーはビオワインの大家で、すごい日本通だった。何度も日本に行っていると話してくれた。

ヴァレットという村はこの地区の首都と言われているのだが、首村という表現が適切かも知れない。その後アンスニーを経てアンジュー地域でも力強い白を作るサヴェニエールに着く。一面ブドウ畑だ。このブドウ畑の海をさらに走らせ、レイヨン、古くからある有名な畑、カール・ド・ショーム、ボーヌゾーと抜けた。そしてアンジュー地区の中心地アンジェの南に位置するブリサックに着く。ここは上物の赤で知られている。ブリサックは丘の上の教会を中心に町があって、その丘の麓に大変美しい城があった。

アンジェの町では、アンジェ城がなかなかの迫力だった。この地域は一時期イギリスの領土になっていたりしている。イギリスの王が婚姻によってアンジュー地方の支配圏を得たことが理由なのだが、この様に婚姻による領土拡大は、神聖ローマ皇帝の座を欲しいままにしたハプスブルグ家だけのお家芸ではなかった様だ。王家どうしがあっちこっちで結婚しており、色んな所で血がつながっている。フランスのブルターニュ併合も婚姻政策の結果だ。ヨーロッパの貴族は昔から国際結婚だ。

余談だが、今のイギリス王朝はフランスのノルマンディ公の末裔で、ノルマンディ公は一応フランスの臣下に当たる。このノルマンディ公・ギョーム2世がイギリス王になる。これも婚姻政策によって王位継承権を得たことに端を発している。ノルマン朝はイギリスでは王、フランスでは臣下というちょっとややこしい身分となった。さらにはフランス王女との婚姻によって王位継承権保持者ともなり、もっとややこしい身分となる。イギリス王がそもそも今で言う2重国籍だ。(現代の国という概念はこの頃にはなかったのだが)

アンジェの後、ソーミュールに入った。ここもワイン地区。特にシャンポール村とその周辺に広大なブドウ畑が広がっている。ソーミュールにも美しい城が建っていて、ロワール川を見下ろしている。

ソーミュールからトゥールにかけてのロワール川沿いには、河岸に岩肌を露出させた崖が続いている。この壁をくりぬいて家を作っているのがこの地域の特徴となっている。家の大部分は洞窟なのだが、その表には家らしき装飾が施されている。見た限り、岩に突っ込んだ家の様相を呈している。ワイナリーも沢山あって、ご自慢の洞窟カーヴが売り物になっている。

この地域のモンソローというところで、本日のキャンプとあいなった。キャンプ場からはこの洞窟家屋が良く見学出来た。またロワール川の川面に映った夕焼けがとても美しかった。夜、急に花火の音が鳴り響き、革命記念日だったことを思い出す。その後ひとしきり車やバイクの音がした。きっと花火帰りなのだろう。

 

7月15日(火)

 

このキャンプ場は朝7時半にならないとゲートが開かない。さらに出発が遅れた。まずはシノンに向かう。この日はどちらかというと、ブドウ畑巡りというより、ロワール川の古城巡りだ。シノン城は、フランスの救世主ジャンヌ・ダルクとシャルル7世が対面した歴史的な場所。その割には、地味な作りだった。

シノンはいい赤ワインを造る地域としても知られている。ワイナリーを訪問して1本購入した。シノンとロワール川を挟んで対岸にあるブルゲーユ(同じく良質赤ワインの産地)に寄った後、ユッセ城に足を運ぶ。この城は「眠れる森の美女」の城のモデルとなった所として有名。とんがった塔みたいなものが沢山あって、おとぎ話に出てくる様なお城だった。ただ、平地にどでっとあるところが、ちょっと残念。あのディズニーの城のモデルとなったノイ・シュヴァンシュタイン城(ドイツ)より立体感に乏しい。

ユッセ城からほど遠くない所にアゼ・ル・リドー城がある。こぢんまりした城でちょっとメルヘンチックだ。この城下町アゼ・ル・リドーも落ち着いていて趣がある。ワインもアゼ・ル・リドーの統制呼称を名乗れる。フルーティで芳醇な白ワインが作られている。

そこから少し離れたところにロシュ城がある。これらの城はロワール川の支流、アンドル川に連なって建城されている。ロシュ城は規模がでかい。城下町に加え、城内にも町が作られている。

ロシュ城から北上するとローヌ川の別の支流シエール川に浮かんでいるシュノンソー城に辿り着く。この城は代々の城主が女性だったことから「6人の女の城」とも言われている。女性が城主だっただけあって、本当に優雅な城だ。シエール川を渡る様に作られたこの城は、優雅に浮かぶ豪華客船にも似ている。今まで訪れた城は入場料を払って中に入らなくても姿を拝められたけれど、この城だけはそうは行かなかった。ということで、入場料分じっくり見物させてもらった。

シュノンソーよりさらに北上すると、ローヌ川にぶつかる。そのぶつかったところにアンボワーズ城がローヌ川を見下ろしながらそびえ立っている。アンボワーズ城の聖ユベール礼拝堂に、フランソワ1世の招きでこの城にやってきたレオナルド・ダビンチが埋葬されている。アンボワーズはレオナルド・ダビンチの臨終の地でもある。アンボワーズにも同名の統制呼称を持つワインがあって評判が高い。アンボワーズまではトゥールから東に約15キロ。

ここからトゥールまで向かう途中にモンルイ、ヴーヴレというトゥール地区でも上物を産する村がある。これらの地域の甘口白は15年以上の熟成に耐え、ソーテルヌのものより果実実を残すと言われている。ヴーヴレで最上の畑は、クロ・デュ・ブールとクロ・ル・モン。

トゥール地区のワイナリーとローヌ川の古城をひとしきり見物し、オルレアンに向かった。オルレアンに着く頃はもう午後7時近かった。オルレアンではジャンヌダルクの銅像、旧市街の様子、大聖堂などを急いで見回って、近くのキャンプ場へと車を走らせた。

ところが、どうも車の調子が悪い。ついにはオーバーヒートを起こす。オルレアンの郊外で立ち往生してしまった。それでもだましだましホテルのある町サン・ドニまで車を走らせてみたものの、やっと到着した時には午後10時をまわっていた。ホテルのロビーにはもう誰もいない。チェックインも出来なかった。仕方なくロワール川に出てキャンプ場を探す。幸いにもすぐに見つかったのだが、ここの受付ももう閉まっていた。今日はもう車で寝るしか打つ手がない。キャンプ場脇にある従業員用の駐車場で車中泊となった。

ちょっと寝苦しいものの、キャンプ場脇だけあってトイレと水場は確保出来た、というか無断使用だ。

 

7月16日(水)

 

朝4時起床。早く起きて走れるところまで走ってみるつもりだった。まずエンジンの状態を確認。するとラジエターの冷却水の予備タンク空になっている。やはりラジエターに問題があると判明。恐らくは何らかの原因で気泡が出来て、冷却水の環流を妨害していたのだろう。エンジンが暖まっているうちはそれがわかり難かったが、完全に冷え切った状態になってやっと判別出来た。ということで冷却水を足す。不凍液などないから、水だ。なんと3リットル弱も入った。これではオーバーヒートしても当然なのだが、一体3リットルもの水は何処へ蒸発したのか?今もって謎である。

朝食を取り朝5時にキャンプ場を出た。正確には、キャンプ場の駐車場を出た。一路サンセールへ向かう。幸運にも車は順調に走ってくれた。禍転じて福と成すというか、車中泊した為、早朝から活動出来る。まだ朝靄の残るサンセールの丘に立った時は、その見渡す景色の美しさに息を呑んだ。

サンセールからロワール川を挟んだ対岸に広がる地域がプイィ・フュメだ。両方とも白ワインの産地で魚介類との相性がいい。プイィ・フュメの方が生産量が少なく、入手が難しくなっている。

プイィ・フュメでは、スイスでおなじみのぶどう品種シャスラも栽培されている。シャスラがこの地域の伝統的ぶどう品種だったらしい。しかしフィロキセラという害虫の被害にあった事を契機にソーヴィニョン・ブランに植え替えられて行ったのだそうだ。今やプイィ・フュメを名乗れるのはソーヴィニョン・ブランで作られたもののみ。シャスラで作られた白は、プイィ・シュール・ロワールという名称を使わなくてはならない。2級品という扱いだ。しかし、試飲してみると確かにフュメの持つ複雑さはないが、フルーティでバランスが良く結構いける。

あらかじめ調べておいた有名どころのワイナリーがどうしても見つからず、シャスラもあるとの看板を見て入った小さなワイナリーで試飲したのだが、ここが大当たり。ここのプイィ・フュメのヴィエイエ・ヴィーニュは大変素晴らしかった。しかも値段が11ユーロと超良心的。ケースで買って帰りたい衝動に駆られた。こういうのもワイナリー巡りの醍醐味だ。

ここでロワールのワイン巡りは終わる。この先のロワール川上流域にはもうワイン産地がない。あとはスイスに戻るのみなのだが、ここからブルゴーニュのシャブリ地区までは100キロ程の距離。早朝から動いているからまだまだ立ち寄れる。そこでシャブリ地区とそれに隣接したオーセール地区に寄ることにした。

シャブリ地区ではどうしても寄りたいドメーヌがあった。ドメーヌ・ウイリアム・フェーヴル。シャブリの最高峰と称されていながら、値段は良心的だ。ここまで来て、ここのワインを買って帰らない手はない。しかし、残念ながらワインの値段は上昇していた。ここのところどこでもそうだがワインの値段は上がる一方で寂しい限りだ。それでもプリュミエ・クリュのフォーショームが20ユーロ台だったので、これを買うことにした。試飲もしてみたが、グラン・クリュといい勝負をしている。

シャブリの隣、オーセール地区では、サン・ブリという村のソーヴィニョン・ブランで出来た白、イランシー村のピノ・ノワール主体の赤に定評がある。サン・ブリでは目当てのワイナリーでワインが売り切れだと言われてしまう。そこでイランシーにまわったが、ここで試飲した赤はすごかった。コート・ドールのグラン・クリュものと向こうを張っている。しかし値段は10ユーロ台前半だ。若飲み用の赤は10ユーロを切る。今回寄ったドメーヌ・アニタ・エ・ジャン・ピエール・コリノは長年にわたって最上級のイランシーを造っているとの定評がある。その言葉にウソはないと思った。イランシーは今後目の離せない地域となった。因みに、シャブリ地区に隣接している為、イランシーの赤は別名「シャブリの赤」とも呼ばれるらしい。

ロワール地区のワインはリーズナブルで買いやすい。今回の旅行では結構沢山ワインを買ったが、懐はそんなに痛まなかった。これはうれしい。オーセールから高速に乗り、ブルゴーニュの中心地ボーヌを横切りブザンソンまで行く。ここから国道に入りアブサンの代用酒パスティスの町ポンタリエ(ペルノーの本社がある)を通り、ジュラの峠を越え、スイスに入った。ボーヌで降りてもう一泊したい衝動にかられるも、用事があったため泣く泣く我慢する。